« 2000年01月 | メイン | 2005年01月 »

2004年12月26日

パーソナル・ディフニッション・オブ・サクセス

都内に部屋を見つけました。
一月の中旬に引っ越します。
六畳一間の安いアパートです。銭湯が徒歩一分の所にあります。
駅からは徒歩5分。上出来でしょう。

僕は、それほど贅沢な生活を望んでいる訳ではないのです。
必要だと思うものが最低限あれば、あとは我慢できます。
どこかで不自由を楽しんでいるのだから「我慢」ですらないのかもしれません。
エアコンがないほうが、冬寒くて、夏暑いということを感じられます。
風呂がなければ銭湯が楽しいでしょう。(見方を変えれば、すぐ横に大浴場を持っていると言える)
トイレはつっかけを履いてドアを出ればいい。
部屋の中にないと絶対ヤダなんて思わない。
こういう事には、まあまあ我慢できる方だと思います。
時折我慢していることさえ忘れます。

住む場所に限らず、あらゆる物について、別に必要でないものは必要ないのに、そこをどうやって買わせるか。そういう言葉が余りにも溢れています。ありとあらゆる媒体が、一日中休む事なく巧妙に、欠落感、渇望感を刺激し、思考停止状態を作り出しています。
そういう言葉の氾濫から一歩距離を置くという立ち位置。
完全に離れるのでもなく、かといって渦中で盲目にもならない。
そういう微妙な立ち位置でバランスをとることが、お金や物欲に対する誠実な態度なのだと思います。

そういえば思い出すのだけれど、「人生ゲーム」というボードゲームがありました。
ルーレットを回し、出た目だけ進み、就職や結婚など様々な人生の節目とお金の出入りがあり、最終的な勝ち負けは持っているお金の額で決定されていました。僕は当時大喜びで遊んでいたのですが、今思い出すと、なんとも言えない気持ちになります。風刺としては極めて良質で、えげつない。

思えば、雑誌も新聞もテレビも、メディアの大部分が人生ゲームというスゴロクを助長させる働きをしています。○○代で○○という肩書き、年収○○万円、○○駅に住み、○○を持っている。○○の次は○○をして、その次は○○。
そいういう他者と比べられる分かりやすい基準とレールがないと不安になるという性質を利用して、売り上げを伸ばすのでしょう。こういう言説は余りに毎日、余りに高密度で浴びせられているので、知らずに僕の中にも否応なく血肉化されているのだと思います。ぼくはやはりある部分で、他者と比べないという達観の困難さを感じるのです。

星野道夫さんの書いた文章の一節に「パーソナル・ディフニッション・オブ・サクセス」という言葉があります。


ビルと奥さんのナンシーほどシンプルな暮らしをしている老夫婦をぼくは知らない。(中略)わずか十五畳ほどの家の中を見渡しても、人間はこれだけ何も持たなくてもよいのだ、とビルの暮らしは語りかけてくる。言いかえれば、人生を生きていく身の軽さである。そう、誰かがパーソナル・ディフニッション・オブ・サクセスという言葉を使っていた。きわめて個人的な、社会の尺度からは最も離れたところにある人生の成否、その存在をビルはぼくたちにそっと教えてくれているのかもしれない。(『旅をする木』の中の「生まれもった川」より)

これは、人生スゴロクから離脱するということなのだと思います。星野さんはそのことを「自分の生まれもった川の流れの中で生きてゆくということ」と書いています。ビルは星野さんに「ただみんな、驚くほど早い年齢でその流れを捨て、岸にたどり着こうとしてしまう」と言っていました。

パーソナル・ディフニッション・オブ・サクセス
個人的に定義する成功。

この言葉の持つ意味をよく考えます。
そしてぼくはごく単純に、「別に“お金持ち”になりたい訳ではないのだ」と何度も思うのです。
それこそ、何度も、何度も、何度も思うのです。
そのようなところに成功の定義はないと確認し、(これが実はなかなか難しい)
現実的なお金の入手方法を検討します。

パーソナル・ディフニッション・オブ・サクセス、
いい言葉だなぁと思います。
自己満足や傲慢さといった否定的なニュアンスを感じさせません。
社会とのしなやかな、しかし屹然とした間合いを感じます。


引っ越した後、ぼくはどうにか自活していくでしょう。
そのことで、家族や友人にちょっとお願い。
ぼくへかける言葉は、「甘いゾ、もっと現実を見なさい!」という厳しい言葉と、
「大丈夫、きっと上手くいくよ」という言葉は1:10ぐらいにして欲しいと思うのです。
不安は、煽ると無限増殖し、精神を萎縮させてしまう。
しかし、まったく失敗の可能性を見据えないのは、単なる無謀というものだ。

これからどうなるのか、可能性は無限なのだけれど、その中にはしっかりと「失敗の可能性」も含まれていることを見据えつつ、本質的かつ具体的な事柄を探り、見て、撮り、考えて、書きたいです。がんばるぞっ。

投稿者 tsuyoshi : 21:30 | トラックバック

2004年12月20日

部屋探し

このごろ部屋探しをしています。
やっと、本気で引っ越そうという気になりました。
都内にベースキャンプを張り、そこから世界中へ遠征しようという目論みです。
ベースキャンプは情報と人が集まる場がいいだろうと思い、都内にします。
きっととても安いアパートにするでしょう。
一年のうち何ヶ月かを資金稼ぎに費やし、残りを撮影と執筆に費やしたいと思います。
いろいろ考えましたが、この方法がベストだと思いました。
不安には、踊るように対処します。

投稿者 tsuyoshi : 23:52 | トラックバック

2004年12月18日

大丈夫

僕はここに実名で書いている。
だから当然、見知らぬ人以外に、友人、知人、家族、親戚が見ている。
これはなかなか緊張することである。
言葉に責任を持たなければいけなくなる。

昨日の日記を読んだ母は心配したらしく「大丈夫?」という電話が来た。
もちろん、大丈夫である。
このような精神的な大波は、普通の状態なのだ。
たとえ一日中頭を抱えていても大丈夫。
これはかつてない絶体絶命の状態なのではないかと想いながら、自分の人生に厳しく向き合うチャンスだと言い聞かせる。裸の心を直視できるチャンスはそうはない。だから”大丈夫”なのだ。

僕はナイフエッジの稜線をバランスをとりながら登攀しているのであり、フリーソロを志向しているのであり、荷物は限りなく減らそうと努めているのであり、際どいムーブも現れるし、天候も安定しない。ビバークの連続である。食料も限られている。もしかしたら凍傷にかかるかもしれない。しかし、登攀を続ける意志は根底で揺るぎないのであり、例えどれだけ悪天候で、どれだけ酸素が薄くとも、視界ゼロだとしても、大丈夫なのである。稜線上で、命が燃えている限り、大丈夫なのである。

むしろ、責任のない言葉を言いだした時こそ「大丈夫?」と問いただされたい。
顔のない、無難な言葉を発しだした時こそ、本当の危機が始まっている。

投稿者 tsuyoshi : 02:28 | トラックバック

2004年12月17日

フォトショップ・カウンセリング

今現在の僕の状態は、「ニート」という烙印を押されるものなのだろうな。「引きこもり」と言えば言えるけど言葉の響きとしては「隠遁者」と言われる方が虚栄心が刺激される。
年末の、師が走るほど忙しいのであろうこの時期にこのようなことを書くと罵倒されそうな気がするが、僕は一日中実質的には何もしていない。眠っている時間が長く、眠りは浅い。起きているときはパソコンに向かい何事かしているか、本をつらつら読んでいるか、考え事をしている。それでもお腹は減るので何日かに一度買い物へ行き、料理をしている。生産的な行動といえば料理ぐらいだ。あとは散歩をしたり、近くの本屋へ行き何時間も立ち読みしたり、カフェで読書をしたりしているぐらいだ。ごくたまに友人から電話があり話したり、食べたりもする。一週間に一人か二人といったところである。
ほとんど何もしていないに等しいのだが、不思議と退屈ではない。というより、ある意味ではものすごく忙しい。ふとした心の隙間を突かれ急に狂おしくなったり、本やネット上やメールのあらゆる言葉に過剰に反応したりしている。何かの拍子にある本で読んだある言葉が思い浮かび、力が湧いてきたと思った次の瞬間に、また正反対の言葉が思い浮かび、同じ力で逆に引っ張るので、身動きが取れない。アイデアが浮かび、これは?!と思い凝視すると途端に張り子になったりする。
こういう自分の今の状態を客観視すると悪夢としか言いようがない。実際あまりいい夢を見ていない。後味の悪い夢ばかりである。穴を掘ってはまた埋めるという無為な作業でもいいから、太陽の下で具体的な命令される労働があればいいと夢想したりする。とても忙しいのと時間が有り余るのと、どちらが苦しいのだろうか?今は思考の奴隷のような状態である。案ずるより産むが易しと言うが、つまり案ずるほうが難しいということか。なぜ命が体内で発生するかそのメカニズムを案じたり、進化の歴史を案じたり、あるいは赤ちゃんが生まれる前に生活費のシュミレーションをするのは、やはり難しい。もしかして文系大学院生の日常に近いのではないかと思い、そうなると僕も何か有意義な独学をしている気もしてくる。僕のしている事はつまり、資本主義社会への声低いアンチテーゼ、野蛮な文明から野生の思考への優雅な移行作業。経済的にはまったく無意味な存在だが、暴風域の脳内は感動的な耐風姿勢をとっている。

とはいえ、最小限の自衛手段も講じている。最近Photoshopの勉強を始めたのだ。Photoshopとは画像編集アプリケーションである。『フォトショップcs教室』という本を買い、レッスン1から順に勉強している。もうレッスン7までいった。時折あやしく物狂おしくなったときなど、あわててフォトショップ、フォトショップとつぶやき、テキストを開き避難するのである。テキストを開き、指示されるままに赤子のようにまねて、画像編集のやり方を学び、なんとかやり過ごすという方法は意外と有効であった。とにかくレッスンを一つ終えると、何かしら向上があり、それがささやかながら重大な支えとなる。「ファイルブラウザの使い方」「写真修正の基本」「選択範囲の操作」などというものを覚えることが精神衛生上は好ましいのである。「レイヤーの基礎」「マスクとチャンネル」「レタッチと修正」と覚え、確かに自分は向上している、全く無為という訳ではないと、例えそれがワラであっても必死に掴んでいるのである。これから先のレッスンの見出しを見ると、「ベクトルマスク、パス、シェイプ」だとか「2色印刷用の画像の編集」だとか書いてある。本当に自分に必要なスキルなのかと考える前に、学んでしまおうと思っている。まさに案ずるより産むが易しである。これはphotoshopのレッスンというより、カウンセリングなのだと言い聞かせているのである。カウンセリングが必要な状態なのだと言い聞かせているのである。もちろんそのうち写真を多用したおしゃれなホームページにしたいという願望があり、フォトショップは一通り使えるよと言いたいのでもあるが、フォトショップであらねばならぬという必然はない。ロシア語の勉強でもよかった。web制作ツールであるDreamweaverのお勉強でもよかった。コツコツと、思考が衝突しないような、向上が眼に見えるようなお勉強ならなんでもいいのである。

さて、今日は「ペイントと編集」のお勉強だ。
最近寝すぎなのか座り過ぎなのか、腰が痛い。

投稿者 tsuyoshi : 00:51 | トラックバック

2004年12月11日

詩集『はだか』谷川俊太郎より、「はだか」

はだか

ひとりでるすばんをしていたひるま
きゅうにはだかになりたくなった
あたまからふくをぬいで
したぎもぬいでぱんてぃもぬいで
くつしたもぬいだ
よるおふろにはいるときとぜんぜんちがう
すごくむねがどきどきして
さむくないのにうでとももに
さむいぼがたっている
ぬいだふくがあしもとでいきものみたい
わたしのからだのにおいが
もわっとのぼってくる
おなかをみるとすべすべと
どこまでもつづいている
おひさまがあたっていてもえるようだ
じぶんのからだにさわるのがこわい
わたしはじめんにかじりつきたい
わたしはそらにとけていってしまいたい

(詩集『はだか』谷川俊太郎より)

同じ詩集からもう一つ。
こんどは女の子のようだ。

詩は、受け取る人により、万華鏡のように変わっていくもの。
だからこれから書くこの詩の感想は、僕が受け取ったある種の“感動”を
そのまま素直に記したもの。
堅く書くけれど、文章の堅さは感動の度合いとは本来無関係だろう。


この詩を谷川さんはどのようにして書いたのだろうかと思う。
書くに任せたらこのような詩ができたのだろうか。
詩人って恐ろしい人達だなと思う。
ものすごく深い地層から、無造作に言葉を投げ出すのだから。

人間の根源的な不安は、
「自分は大地の一部なのか、それとも個としてあるのか」
という不安だろう。
誰だって、どこかから来た。そして死ぬとどこかへ行く。
たぶん、大地から来て、大地へ帰る。
だって、僕たちの体を構成する全ての物質は、手も足も歯も脳みそだって、
全部大地から来ているのだから。
そして死ぬと跡形もなく大地の一部となるのだから。

でも、人間は「個」として存在している。そういう質感が確かにある。
「私」という概念は疑えない。「私」は確かに個として存在している。

一体自分は「全体の一部なのか、個なのか」、どうしたって疑問に思う。
そこに説明が与えられないと、余りにも不安定で、不安になる。
これは「言葉」を持ち、「死」を発見した現生人類が宿命的に持つ不安だ。

(現在の脳科学の分野では、「物質である脳にいかに意識が宿るのか」という、いわゆる”難しい問題”として、一番ホットな学問領域だそうだ。)

この不安に説明を与えようとして、神話は語り継がれてきた。
世界中に残っている神話、民話、伝説の類いは、「全体の一部なのか個なのか」を雄弁に物語っている。

女の子がはだかになったときに感じる言うに言われぬ想いは、
「はだか」であることが「自然」であることと離れているから。
でも「自然」であった頃を思い出させるから。

動物園の動物は、みんなすっぽんぽんだ。
そういう人間が純粋に動物だったころの記憶がまだ残っているから、
でも残っているのにもうずいぶんと自然の一部だった頃から遠く離れているから、
言うに言われぬのだ。
だから「きゅうにはだかになりたくなった」という衝動は、きわめて根源的な、神話的思考の発露だろう。

女の子は自分の足下を見て「ぬいだふくがあしもとでいきものみたい」と言っている。
脱皮した蛇や、さなぎからかえった蝶は、かつて体の一部だったものを再びはまとわない。
でも人間はまた服を着て、また体の一部にする。
人間は服を着るが、動物は着ない。神話の世界では、クマは「毛皮を着た人間」という扱いを受ける。魂のレベルでは、クマも人間も変わりはなく、ただ毛皮をまとっているかいないかだけが違う。


じぶんのからだにさわるのがこわい
わたしはじめんにかじりつきたい
わたしはそらにとけていってしまいたい

文字通り一番身近な自分の体なのに、急になにがなんだか分からなくなる。
自分は大地からにょきっと生えたキノコとどう違うのか。

かじりついて全体を自分の一部とし、
とけていって自分を全体の一部にしてしまいたいという衝動が
恐ろしい的確さで人間の根源的な不安を言い表している。

谷川さんは一体どうやってこの詩を書いたのだろうか。
やっぱり書くに任せて書いたらこうなったのだろうか。
わけが分からない。詩人の言葉は本当にわけが分からない。
どれだけ「言葉」に対して真摯になればこのような詩が生まれるのだろう。
本当に尊敬してしまう。

投稿者 tsuyoshi : 05:19 | トラックバック

2004年12月09日

詩集『はだか』谷川俊太郎より、「さようなら」

さようなら

ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない

(詩集『はだか』谷川俊太郎より)

こんな詩に出会いました。
前つんのめりの、焦るリズムが、読んでいて苦しい。

少年は、「どこへいくのかわからないけど」「いかなきゃなんない」。
さらに、「ひとりでいかなきゃなんない」。

少年の、何か内面の必然に強く促されている決意が、
自分でも訳が分からないまま熱に浮かされている衝動が、
はだかの魂から、もっとも傷つきやすい形で、
そして最も強く、根源的な輝きで、出ています。

こういうはだかの詩を読むと、運命に厳しく立ち向かうその姿勢に、深く感動します。
そして、自分もまた、「どこへいくのかわからない」けど「いかなきゃなんない」
という極度に緊張感のある地点へ投げ出されます。
だから、感動と苦しさが表裏一体です。
芸術が持つ感染力なのだと思います。
非常に奥の方から力が湧いてきます。
一見するとひらがなだけの、子供向けの詩かと思われるけれど、とんでもない。
純粋な目は、自己存在に深く関わってくるとても恐ろしいものだと思います。

何度も朗読していると、言葉が次々に繋がっていくリズムが、
少年が、「さくらなみきのしたをとおって」「おおどおりをしんごうでわたって」
早足で歩いている情景と重なり、自分も何か、「いかなきゃなんない」と
急き立てられます。生き急ぐ少年の足音まで聞こえてくるかのようです。

大人は、「どこへいくのかわからない」のならば、行けないでしょう。
でも、少年は、「どこへいくのかわからないけど」、行ってしまえます。
理由のない内的必然性に促されているのだから一番強い。
それは、なぜ愛しているか言語化できなくても
「愛しているから愛している」という論理破綻のまま突っ走れるのと似ています。

谷川俊太郎さんは、しかしながら、大人です。
大人なのに魂を裸にできるということが驚きなのです。
言うなれば、「オトナコドモ」のような人です。

誰だって子供時代はあります。
そして誰だって時間が経てば大人になります。
でも「オトナコドモ」になるのは、丸腰で生きる勇気が必要になります。
たった一人で、丸腰で生き続ける勇気。
傷つきやすい魂を、そのままジャリジャリした外界に晒さねばならず、
とてもじゃないけどできません。

ところが、とてもじゃないけどできないことを、魂は平気で要求してきます。
本当に困ったことです。一体どうすればいいんだと思います。
困った困ったと思いながら、一日中魂にはりついた薄皮を剥がしています。
でも、困るからこそ熱を帯びてくるものも、確かにあります。

「もういかなきゃなんない」とパニックになるぐらい焦りつつ、
一方で、いまできる事探して、着実に、具体的に、淡々とやっていく。

焦るリズムと淡々としたリズムの二つの旋律が
不思議な調和を見せて同居しています。

投稿者 tsuyoshi : 23:12 | トラックバック

2004年12月04日

『偶然の音楽』

『ムーン・パレス』という小説は、今まで読んだ本の中でかなりお気に入りの一冊である。だから、同じ著者の別の作品も読んでみようと、『偶然の音楽』P・オースター(新潮文庫)を読んだ。

実はこの本は、ずいぶん前にいつか読むだろうとブックオフで買い、長い間本棚で読まれるのを待っていた。いわゆる「積ん読」というものだが、そういう本がかなりたくさん僕の本棚にはある。

いつか必ず読みたい。でももう少し後で。そうずっと思っていた本なのだ。
だから、そういう本は必ず「なぜ今この本なのか」と読む前も、読んでいる途中も、読んだ後も思っている。自分の人生と本を、時間を限定させる事によってより強固に結びつけたいと思っているのだろう。あるいはどこかで、「“今”読むべき本は、膨大な冊数の中でもたった一冊しかない」と思っているのかもしれない。だから僕は、本を読む時間と同じかそれ以上に、読む本を選ぶ行為に多くの時間を割いている。

僕は本を読む事は大好きなのだが、実は読むスピードは遅い。それにとてもたくさんの労力を使う。一冊読むとクタクタになる。時間的にも精神的にも多くを消費してしまう本は、やはりよくよく選ばなければならないと思っている。

ではなぜ、今この本を選ぶのか明確に説明できるかといえば、そうではない。
実用書などは必要だから読むと説明できるが、小説はちょっとよく分からないのだ。交通事故のようなものかもしれない。恋のようなものかもしれない。偶然、何気なく本棚から手に取り読み始め、いままでは入り込めなかったのにその時はなぜか一気にその世界に入り込め、そして読了してしまう。

『偶然の音楽』は、よりによってなぜこのタイミングにこの本を読んでいるのだろうと、以前にも増して強く思った本だった。『ムーン・パレス』と同じような体験をどこかで期待していたのだが、見事に裏切られた。
物語の構造はかなり似ているのに、読後感がまるで違う。どちらの主人公も最低限ぎりぎりのところまで止むに止まれぬ内面の事情で突っ走るように墜落していく。そしてもう本当にだめだという最底辺まで落ちた時に偶然の出会いがあり、物語が始まる。
しかし、『ムーン・パレス』の読後感が希望と開放感に満ちた物ならば、『偶然の音楽』は虚脱感と閉塞感に満ちている。

末尾にある小川洋子さんの文章にこう書いてあった。

オースターの小説を考える時、偶然という要素はどうしても外せないが、彼はそれを必然的な生死の対極にあるものとしてとらえている。理論や科学や法律でうまく取り繕われているようでありながら、実は人生の大半は理由のつかない偶発的な出来事によって形成されている。彼はその不思議の奥に、真の物語を掘り起こそうとしている。

偶然、この本を読んだ。いままでずっと本棚にあったにも関わらず、よりによってとても強い閉塞感に苛まされている今、この本を読んだ。以前に冒頭部だけ読んだときには引火しなかった導火線が、今回は一発で引火し、一気に読了した。なぜだろうと思いを馳せると、なんとなく分かったような理由も浮かんでくる。閉塞感を感じている時に、閉塞の物語が読みたくなったのかなと思ったが、それは後からくっつけた言いがかりに過ぎない。もう一カ所小川洋子さんの文章を引用する。

一人取り残され、途方に暮れた私がもう一度ページをめくり、読み返した場面がある。トレーラーハウスでのパーティの夜、デザートを運ぶナッシュが賛美歌を歌うところ。偶然口をついて出てきた音楽。題名の出所はここにあるに違いないと、私は信じている。

ああそうだった、そんな場面があったと思い出し、僕もその箇所を読み直した。偶然、口から音楽が漏れる。意味を越えている。音楽の一番幸せな形かもしれない。すこし長いがその場面を引用する。

出し抜けに、自分でもそんなつもりはなかったのだが、気がついたら、子供のころ覚えた賛美歌を歌っていた。「エルサレム」、詞を書いたのはウィリアム・ブレイク。もう二十年いじょう歌っていなかったのに、歌詞は残らず蘇ってきて、まるでここ二か月ずっとこの瞬間に備えて練習を重ねてきたかのように、言葉が次々と舌から転げ落ちていった。(中略)二人は最後まで黙って耳を傾け、それから、ナッシュが腰を下ろしてぎこちない笑みを彼らの方に向けると、二人ともぱちぱちと手を叩いてくれて、ナッシュがようやく立ち上がってお辞儀をするまで拍手を辞めなかった。

投稿者 tsuyoshi : 12:38 | トラックバック

2004年12月01日

その日を摘め

題を「その日を摘め」として、新しくブログを始めます。

題は古代ローマの詩人ホラーティウスの言葉を借りました。
ラテン語では「カルペ・ディエム(Carpe diem)」というそうです。
「その日を摘め」「一日の花を摘め」といった意味だそうです。

大切な事は、今日一日の花を摘みとること。そんな想いを込めています。
未来を思い煩い、不安に押し潰されそうになる前に、その日を摘む。
そしてできるなら、摘んだ花を持ち、語る。

そんな日記・エッセイを綴っていきたいです。
よろしくお願いします。

投稿者 tsuyoshi : 23:51 | トラックバック