2005年01月22日
引っ越し当日の文章
やっとネットに繋げるようになりました。
今日は引っ越し当日(18日)に書いた文章を載せます。
引っ越し当日ならではの文章だなあと読み返して思います。
考察としてはちょっと雑だけれど、臨場感を優先し、そのまま載せます。
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杉並区に引っ越しました。
ネットに繋げる環境になるのは数日後なのですが、この文章は引っ越した当日の夜に書いています。
ほとんどの段ボールが整理し切れなく部屋を埋め尽くしています。
今度のアパートは風呂なしの六畳一間。この前が六畳2部屋のアパートだったので、一気に狭くなりました。
引っ越しをすると心が荒みます。
それは多くのモノとの関係を見直し、少なからぬモノを捨てるからでしょう。そして少なからぬモノを捨て切れないからでしょう。
一ヶ月前の引っ越しを決めたときから、すべてのモノをひとつひとつ見直す作業がはじまりました。これは精神的に本当に疲労を伴うものでした。そして今日ようやくその作業が終わり、捨ててしまったモノへの心苦しさと、捨て切れなかったモノへの憎々しさで、なにかもう精魂尽き果てたという感じです。体力的には大した事ないはずなのですが、精神的にもう疲労困憊です。とても段ボールを開けて整理する気になれません。開けると、こんなモノも持ってきてしまったのかとなお脱力するばかりだからです。
極論してしまえば、絶対本当に必要なものは大きなバッグ一つ程度になるでしょう。
そういう状態が理想ではあるのですが、いまもしそれだけしか物を持たずにこの部屋にいたとしたら、それはそれは心細いでしょう。自分が、吹けば飛ぶような軽い存在に思えてしまうでしょう。きれいごとではない“自由”の一面なのだと思います。
僕はいま、ちょっと大きな赤帽車いっぱいの荷物と共に部屋にいます。
周りには見慣れた家具や小物が散乱しています。「本当にこれらのものが必要なのか?」と問われても、答えられません。どんなになじんだ家具でさえ、捨てたらきっと清々するでしょう。99パーセントは「あれば便利」なものです。あれば便利なものは、なくてもどうにかなるものです。
そう思うと、モノとの関係が急にあやふやになります。親友だと思っていたのに急によそよそしくなるような悲しさがあります。昨日今日と僕は数多くの裏切りをし、別れ話をし、縁切りをし、駄々をこねられ、腐れ縁に絡み付かれました。モノって一体なんなのだろう。ほとんどヒトと同じではないのか?!
たとえばテレビだったり、鉛筆削りだったり、ハンガーだったり、こんなにも具体的なのに、引っ越しのような場面になるといつもモノについて考え込んでしまいます。
モノから疎外されたくない。モノから見捨てられたくない。でもモノに束縛されたくない。
モノをどういう態度で買えばいいのだろう。
「本当に必要なもの」で「一生ものの素材でできたもの」を結婚するような気持ちで買うというのはいい方針だとは思うが、結婚という言葉を聞くとぞっとしてしまう僕は、何も買えなくなる。
食品や、洗剤や、トイレットペーパーなど、時間が経てば無くなるものは、安心して買える。でも、自分で捨てないと無くならないものを買うときの葛藤は相当なものである。
しかしながら、もっと長い時間軸で考えてみれば全てのモノはいつかは壊れる。スプーン一個が壊れるのに何(百?)年かかるか分からないが、とにかく壊れる。一生は持つかもしれないが、永遠はない。そして自分が死んだときには何も持っていけない。
たとえば割れた皿は、何なのだろうか。まるで役に立たないからすぐに捨てられるけれど、そう考えると、役に立つもの、つまり「機能するもの」だけが、モノなのだろうな。これは具体的に機能するのと、思い出の品々など精神的に機能するという両方がある。
人間と動物との違いは、モノを持っているか否かで分けるという観点がある。人間は道具を使うヒト、ホモ・ファーベルだ。
となると、自由でいたい、モノはなるべく少なくして、モノに束縛されたくないという想いは、人間の中の
動物の本能なのかもしれない。
何しろ野生動物は間違いなくモノに執着心がなく、バッグひとつすら持っていないのだから。
人間だってれっきとした動物だ。
だから言わば「野生の思想」が「モノは少なく!」と言っているのだ。
ということは、モノはなるべく少なくしたいと思う人は、どちらかというと動物の本能がまだ残っているタイプの人間なのだろう。
ということで、動物的本能という言葉にたどりついたところで、引っ越し当日の夜の思考は終わりとします。思わぬ収穫でした。
投稿者 tsuyoshi : 2005年01月22日 02:49
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