2005年03月04日

かわいそうな蒼き狼号

BB(ビービー、ボトムブランケット)と言われているパーツは自転車の心臓部にあたる。
ペダルとクランクがフレームに取り付けられている部分のことである。

先日蒼き狼号のBBのガタがひどすぎて、心臓移植を試みる事にした。
自転車屋で新しいBBを買い、古くなっていたフロントギヤも新しく買った。
そして古いBBを取り外そうとしたが、できなかった。
完全にBBがフレームと癒着してしまい、外れないのだ。
おおきなモンキーレンチに思いっきり体重をかけても無理。足で乗っかっても無理。メカニックの人に頼み、すごく大きな工具で外そうとしたが無理。足で思いっきり踏みつけたらBBを外す為に取り付ける工具の歯が欠けてしまった。
しょうがないので潤滑油を浸透させてから再度取り外しを試みる事にした。その日は会社の自転車で仕事をすることになった。

しばらくして、メカニックの人に呼ばれた。彼はフレームのBBが取り付けてある部分を指差して、医者がレントゲン写真を指差してガンを告知するように、ここにクラックがあると言った。よく見ると確かにクラックがある。BBの交換どころの話ではなくなってしまった。もうフレームがダメになってしまっていたのだ。つまり、蒼き狼号は余命いくばくかの身だったのだ。

その日は仕事中ずーっとこれからどうしようか考えながら、なんだかぼんやりしていた。会社の自転車はしっかり整備されており申し分なくスイスイ動くけれど、ちょっとよそよそしい。こうやってちゃんと整備しておけばよかったのだと思うと悪い事をしたと思った。

フレームにクラックが入ったのがBBを取り外すときにできたのか、それとも徐々に出来たのかは分からない。後者なら仕方ないが、前者ならばもっと早くBBを交換していれば防げたかもしれない。
ともかく自分の自転車はデリバリーには使えないと戦力外通告をされてしまった。かわいそうな蒼き狼号。アフリカもチベットも知っている百戦錬磨の彼にもついに引退の時が来たようだ。

旅に出る数ヶ月前の1998年の秋に買ったので、6年半ぐらい乗ったことになる。もう買ったときに付いていたパーツのかなりの部分は交換されている。人間の体は一年で9割が交換されるそうだが、なんだかそれと似ている。

それにしても6年半よく走ってくれた。
旅で4万5千キロ、旅のあとも通学や通勤に毎日活躍していた。合計5万数千キロになるかと思う。
特にフル装備でガタガタの道を走っていたチベットなどは、自転車にとっても相当な負担だった筈だけれど、よく走ってくれた。正直あまり自転車の面倒を見ておらず、メンテナンスを怠っており、壊れたら直すが壊れる前に整備することをしなかった僕はあまりいい持ち主ではなかったかもしれない。それなのにこれでもかと乗り回され、さぞかし大変だったろう。かわいそうに。

でも、「モノ」としてはこうやって使い倒されるのは本望ではないかと思う。
冷静に考えれば自転車はあくまでも「モノ」であり「道具」なのだ。機能が失われると「ゴミ」になるのだ。

「モノ」と「ゴミ」の境目は“機能”なのだということ。
なんて明解でなんて分かりやすい定義だろうと思う。
確かにその通りである。ティッシュペーパーは鼻をかんだ後はもう“機能”が失われるからゴミだ。切れた電球は“機能”がないからゴミだ。

でも“機能”が十分あるけど様々な理由で「ゴミ」になる場合もある。飽きた、古くなった、高性能の新しいのを買った、要らない、修理代が高い…等々。ちょっと悲しい「モノ」から「ゴミ」への経路だが、特に変化が激しい電化製品の分野ではこっちの経路の方が多いのかもしれない。しかしこのような経路も“客観的な機能”ではなく、“主観的な機能”が失われたと捉えれば、“機能”を失ったからゴミになったと言う事も可能である。

この逆もある。
実は僕は旅の途中で「ゴミ」を送り返した事がある。
数万キロ一緒に走ったギヤやチェーンを捨てるにしのびず、送り返した。ぼろぼろになったTシャツを捨てるにしのびず、送り返した。旅の途中で、自分と共に移動している「モノ」は極端に少ないので、過剰に愛着が湧いたのだろう。その時は捨てるなんてあり得ないと思った。

旅を終え、実家に帰ったとき母に「何が送られてくるかと思ってワクワクして開けてみたらゴミが入っていたのでびっくりした」と言われた。そのとき僕は少々傷ついたのだが、言われてみれば全くもってその通りである。高いお金を払って海外から日本へゴミを送るのだから倒錯行為である。でも送った時の僕の心情はまるっきり倒錯などしておらず、これなどは“主観的な機能”はまだ失われていなかったということになるのだと思う。
(つけ加えれば、この“主観的機能”を重視しすぎると皆から「変態」と言われるのである。…たぶん。)

僕はよく「モノ」について考えるのであるが(例:引っ越し当日の文章など)、「モノ」について考えるということは「ゴミ」について考えることと同じかもしれない。

「モノ」と「ゴミ」との境界は“主観的/抽象的な機能”であるということ。
そういう風に言葉には境界線が引かれている。個人によって境界線は揺れるが、“機能するかどうか”ということを基準にしても過ちはないだろう。

しかし「ゴミ」という言葉は実に人間的だなと思う。
使用済みのティッシュから核燃料廃棄物まで、人間だけがゴミを出す。森の中では枯れ葉は決して「ゴミ」ではないけれど、燃えるゴミの日には枯れ葉が袋に入れられていたりする。ちょっと悲しい光景である。


…話が長くなったが、ともあれ自転車のフレームにクラックが入っていた。相当なショックであった。だからいろいろと嫌気がさし、先日仕事に対するグチばかりの文章を書いたのだろう。

これからどうしようかと思う。
いろいろと悩ましいけれど、やはり、たぶん新しい自転車を買う事になるだろうな。
メッセンジャーの仕事はどれだけ続けるか分からないけれど、自転車はずっと乗るだろうから。

僕の性格上、買ったからには使い倒すので、いいものを買いたい。
できるのなら新しいフレームを買って、パーツから組み上げたい。今の自転車に付いているパーツでも買ったばかりのものがいくつかあるのでそれらは移植しよう。
これは“フレームもまたパーツである”というように見方を変えるとただフレームと古くなったパーツを交換するだけの話になるが、心情的にはちょっと無理がある。(これは「モノ」に「主体(個)」というものを認めていることになるのかな?)

しかしながらフレームだけパーツだけという買い方は、完成車を買うのよりも格段に高く付く。
それにどこのフレームにするのか、どんなパーツにするのか、結構悩ましいのだ。
だからしばらくは買えないし買わない。

蒼き狼号はいまだに通勤に使っている。
BBのガタはひどいけれど、一応走れる事は走れるのだ。
ほんとうによく走ってくれる自転車だ。
仕事は会社の自転車を使っている。
ああ、やっぱり悲しいなー。

投稿者 tsuyoshi : 2005年03月04日 12:23

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