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2005年07月23日

1と5

先日担当だった編集者の方にお会いしました。
その席で選考会の内容を教えていただけました。
それがなかなか面白かったので書きます。

5名の選考委員は、それぞれの作品に5点満点で点数を付けるのですが、僕の作品は本当に評価がまっぷたつでした。
僕の作品だけ、満点である5がつきました。でも僕の作品だけ最低点の1もつきました。他の作品は2か3か4しかとっていません。それで受賞作は、たくさんの4をとった作品に決まりました。
僕の作品は、ある人にとってはとても高く評価され、ある人にとっては読むのも苦痛なイライラさせる作品でした。受賞作は、誰からも評価される作品でした。

選考会の内容を聞いて僕は、なんというか、「1と5」というのは大変かっこいいと思いました。受賞するより「1と5」の方がよっぽどかっこいいのではないかと思いました。取ろうと思ったって取れるものではない。

だから僕は、これは同じ落選でも、華麗な、美しい、次に繋がる、かっこいい落選であったと言い聞かせ、自らを慰めております。もちろん僕の作品の未熟さ、甘さ、至らなさを棚に上げるわけにはいかないけれど。でも、開高さんなら、「1と5」の作品を評価したはず。
全員が満点を出す作品なんてありえません。
文学史上の名作でさえあり得ないと思います。

投稿者 tsuyoshi : 13:36 | コメント (8) | トラックバック

2005年07月16日

受賞ならず

『開高健ノンフィクション賞』受賞ならず。
ざ、残念…。

案の定、僕の作品は評価がくっきりと分かれたそうです。
評価をする人はすごくするけれど、しない人は全くしない。
仕方がないです。
とにかく最終候補作になったということはちょっと自信になりました。

今度はもっともっといい作品を書きたいです。
そして今度もまあまあ評価されるような作品は書かないぞと思っています。
受賞を逃してみて、書き続ける意志にはまったく影響を与えられていないことが誇らしいです。

投稿者 tsuyoshi : 19:11 | コメント (13) | トラックバック

待ちながら読む本

もうすこしで午前三時。
これから眠り、起きて、夕方には結果が出る。
それまで僕は待つだけだ。
本を読むか寝るかしながら待とう。

最近僕は読書欲がけっこうある。
週に二冊ぐらいのペースで読んでいる。
それに、以前ならばハードカバーの単行本を買うのにはそれなりに躊躇したのだが、この頃はあっさり買ってしまう。本に対しては財布のひもがとても緩くなっている。いいことだ。やっぱり本は身銭を切って買わないとね。

今日は『ものがたりの余白』ミヒャエル・エンデを読み終えた。エンデが物語を書くことや芸術について述べている箇所がとてもよかった。やはり作家は書くことについて述べるだけで、それが人生論になると思った。同様に、木工職人が家具を作ることについて、農夫が作物を作ることについて、野球選手がバットを振ることについて述べれば、それがそのまま、聞く人にとって、人生論になる。(…というような内容のエッセイを保坂和志さんがどこかに書いていた。)

夜、カフェで『ものがたりの余白』を読み終えてから、次は何を読もうかと考えた。今の状況にぴったりの次に読むべき本は何かを考えるのは、僕のほとんど自動的に行うような癖みたいなものだ。
そして、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』がピッタリだと思い当たり、本屋に行き、買う。ずっと読みたい本リストにあった本である。いわゆる不条理演劇の傑作と言われる戯曲である。ベケットはノーベル賞をとっているらしい。

なんとなく内容は知っていた。エストラゴンとウラジミールという二人が、田舎道で「ああだこうだ」と話しながら、「ゴドー」を「待っている」という話し。
なんとなく、「待っている」という言葉に反応し、これは今読むしかないと思い、買ったのである。
いま、半分ほど読んだのだが、まさにそういう話しである。「ああだこうだ」と二人は話しながら、とにかくゴドーを待っている。ゴドーが何者なのかはよく分からない。Godとゴドーをかけるのがひとつの解釈らしい。ともかく、不条理だということはよく分かる。つまり、よく分からない。

僕はゴドーは待っていないけれど、結果が出るのは待っている。『ゴドーを待ちながら』を読みながら待つのも悪くはないだろうという、ささやかな遊びをしつつ、もうすこし待とう。ほんとうにもう少しなのだから。

投稿者 tsuyoshi : 01:50 | トラックバック

2005年07月13日

あと三日

あと三日。
受賞作の発表まであと三日。
土曜日に都内のとあるホテルで選考会は行われ、紛糾しなければ夕方には結果が出るそうです。結果が出次第電話で連絡をうけることになっています。

ひょっとすると受賞するんじゃないかと思い、いや期待しすぎるのはよくないと自制し、でも案外すんなり受賞したりしてと思い、いやいや未熟な作品なのは自分が一番知っていると思い直し、でも未熟だが将来性はあるぞと励まし、いやいやいや他の候補作だって粒ぞろいだぞと言い聞かせ、電子レンジの中に入れられた水の分子のように想いは急速に反転し続け、けっこうタイヘンです。はやく結果が出て欲しいです。

ともかく、あと三日。

投稿者 tsuyoshi : 23:32 | トラックバック

2005年07月09日

「モモ」ミヒャエル・エンデ

どうも忙しい、時間がない。そう感じることが多くなってきた。これは何かおかしいと感じて、もしかして時間どろぼうに時間を盗まれているのではないかとふと思い、『モモ』を再読してみることにした。
たぶん、小学生のときに読んだか読み聞かせてもらったかして以来の再読だ。
「灰色の男」とか「カシオペイア」とか「道路掃除夫ベッポ」とか、単語だけは覚えているけれど、どんなお話かはすっかり忘れていた。

本屋へ行く。児童書のコーナーへ行く。そうしたら『モモ』が岩波少年文庫で平積みされていた。奥付を見ると発行日は2005年6月16日。つい最近文庫本になったばかりだった。だから平積みだったんだ。まるで僕が読むことを待っていたみたいじゃないかと喜んで買い、平日に一章か二章づつ、くたくたになっていたが、時間を盗まれてたまるかと思い読み、週末に一気にまとめて読み、読了。

自分がいま一番欲している物語に、最高のタイミングで出会えた。
とても喉が渇いているときに水を与えられたように、物語が体にごくごくと入ってきた感じだ。とても幸せな読書体験だった。

そして、痛いほど身につまされる話だった。
やはり僕は知らぬ間に灰色の男と契約していたのだ。
僕の時間の花は、灰色の男によって盗まれ、冷凍保存され、乾かされ、葉巻にされ、ぷかぷか吸われていたのだ。なんてこった!

僕は、いらいらせかせかメッセンジャーの仕事をしている時がある。
いくつもの急ぎの荷物を同時に持ち、赤信号でいらいら、内線電話をして呼び出したのになかなか現れなくていらいら、エレベーターがなかなか来なくていらいら。
本当に、一分一秒を節約するうような仕事なのだ。お祭り騒ぎかと思われるぐらい、毎日てんやわんやの忙しさなのだ。どうしてこんなにたくさん急ぎの荷物が発生するのか、僕には見当もつかない。
でもそれが東京に流れている時間なのだ。そして僕は東京に流れている時間を、嫌というほど体感している。この町は灰色の男に盗まれ続けている。僕も盗まれ続けている。

モモと時間の国にいるマイスター・ホラとの会話にこんな場面がある。

「じゃあ灰色の男は、人間じゃないの?」
「いや、人間じゃない。にたすがたをしているだけだ。」
「でもそれじゃ、いったいなんなの?」
「ほんとうはいないはずのものだ。」
「どうしているようになったの?」
「人間が、そういうものの発生をゆるす条件をつくりだしているからだよ。それに乗じて彼らは生まれてきた。そしてこんどは、人間は彼らに支配させるすきまであたえている。それだけで、灰色の男たちはうまうまと支配権をにぎれるようになれるのだ。」

つまり、灰色の男は、梅雨の時期にカビを発生させてしまうようなものかもしれない。「発生をゆるす条件」を与えているから発生してしまう。本当に身につまされる。

今回『モモ』を読んでみて、もっとも印象に残った箇所は、モモが時間の国で、マイスター・ホラに連れられて自分の心のなかの時間の場所へ行った場面だ。
黒い鏡のような池の上を、ゆっくりと星の振り子が揺れ、その度に花が池の中から咲き、すぐにしおれて池に戻るという場面。どの花も、これこそ一番うつくしいと思える花だということ。そんな花が、振り子が行きつ戻りつする度に、咲いては散ってゆく光景。そして丸天井から射しこむ光と、そこで聞こえている音楽、声、ことば。

モモはふとこんな気がしました。——この鳴りひびく光こそが、どれとして同じもののないあの類いないうつくしい花のひとつひとつを、くらい水底から呼びだして形をあたえているのではないでしょうか。

毎回、二度とないうつくしさを感じさせる花。そういう花が咲いては散り、また咲いては散っているのが、「時間」なのだという。
ぼくはこの、新しく咲く花がいつもいつも、これこそ一番美しいと感じるという感覚を、旅の途中のある時期、夕日を見ることで経験していました。(この紀行文の初めの方を参照してください)
言うなれば、僕は毎日二度とないほど美しい夕日に見とれながら、自分の時間の花が咲いては散る光景を見ていたのだとも言えます。
そして、そう言えば僕のホームページの題は「花もて語れ」でした。

花がないと、言葉がなくなる。言葉がないと、僕はとても困ってしまう。
だから僕は、『モモ』読み終えてから、強く強く思ったのです。
もう時間の花を盗まれるようなすきを与えないぞ!っと。
本当に、いま読むべくして読んだ本でした。

投稿者 tsuyoshi : 05:21 | コメント (8) | トラックバック

2005年07月03日

到達点の名前

7月になりました。
そして、急にそわそわしてきました。
今まで、なるべく意識しないようにしていたのだけれど、やはり、日が経つにつれ、否が応でも意識させられます。7月16日はもうあと二週間後なのです。「開高健ノンフィクション賞」の選考会はあと二週間後なのです。きっと今ごろ選考委員の方々は僕の作品を読んでいることでしょう。

開高さんはいろいろな文学賞の選考委員をしていたのだが、彼の選評はかなり厳しい。たとえばこんな具合に。

作者名、題名、テーマ、ことごとく異なるけれど手ごたえがないということでは泥に似ている。そういう作品をつぎつぎと八作も読まされるのはつらいことである。いくらか慣れてきはしたものの、とらえようのない、空疎なメランコリーが体内によどんできて飲慾も食慾も後退しはじめる。(中略)
"Good ones are few."(よいものは稀である)とは文学のみならず、世事すべてについての鉄則であるだろうが、次回もまた泥状のメランコリーに浸されるのだろうか?……(第89回芥川賞選評)

ほとんどの作品の読後感として、身辺雑記を出ないということがいえる。身辺雑記も名人が書けば見えるものがあったり、瞬間があったり、閃光がキラリとしたりするが、八作には残念ながらそういうふりかえりたくなるものが何もなかった。そして傑出して○のもないが、×もないのだから、すべて△だというのが何度も考えなおしたあげくの総評である。(第90回芥川賞選評)

ぼくの作品をもし開高さんが読んだら、どのような評価をするだろうか。どのような選評になるのだろうか。そういうことをあれこれ想像する遊びを時々しているのだが、これがなかなか精神に緊張を与える遊びなのだ。
かなりしばしば、うなだれる。×だと思う。寝てしまいたくなる。でも、それだけではない。川原の石が日の光とある角度を成したときにきらりと一瞬だけ反射するように、もしかしたら…と思う瞬間はある。実は、ままある。そして、すぐにまた否定する。
女心ほどではないだろうが、けっこう複雑なのだ。最も好きな作家なだけに、余計複雑なのだ。選考委員は開高さんではないけれど、でも、彼に評価されるような作品が選ばれる気がするし、そうであって欲しい。

開高さんが文学賞において作品を評価するときの態度は「一言半句」で一貫している。

私は変わらない。いつもおなじである。新人の作品には鮮烈の一言半句を求めるだけである。それさえ見つかれば、修辞、構成、何であれ、いくら幼稚で稚拙であってもかまわないと思っている。そういうものは受賞後の修業次第でどうにでもなるものである。しかし、いくら修業しても獲得しようのない一言半句はその人の何かしらの核なのだから、そこにだけライトを浴びせ、白昼に提灯をさげてさがし歩かねばならない。(第87回芥川賞選評)

 (以上引用は『ALL WAYS Ⅱ』(角川文庫)より)

今まで読んだ小説の中で間違いなく最高と言える作品に、開高さんの『輝ける闇』と『夏の闇』がある。もう何度読み返したか分からない。そして、いつ、どのページを開いても、「一言半句」がある。必ずある。どのクジにも一等賞と書かれているくじ引きを引くようなものである。

しかし、くじ引きとは大いなる相違がある。一等賞は引いて喜ばしいけれど、ページをめくり、一言半句を引くと、不安になるのだ。あまりにも本当のことすぎて、言葉の放射能に感染させられ、人生が苦しくなるのだ。
「書くことは、野原を断崖のように歩くことだろうとおもう」と彼は書いているが、良い作品を読むこともまた野原を断崖にする。

しかしながら、僕は断崖を攀じる楽しみを知っている。フリークライミングも大好きだし、アルパインクライミングやボルダリングや沢登りも大好きだ。こういう遊びは、不安定と不安をコントロールし、きわどいところでバランスを保ち、危機管理をし、そして断崖を抜ける遊びだ。

このような遊びは、断崖を抜けても、また断崖があるだけである。断崖の先にお花畑があることは約束されていない。むしろ、断崖をぬけた報酬が、さらなる厳しい断崖であることがしばしばである。そしてまさにその厳しい断崖のただなかで、発光するような喜びがあるのである。それが断崖を攀じる楽しみである。遊園地のような用意されたお花畑の楽しみとは正反対である。

ぼくにとって良い作品とは、自分の人生を苦しくさせ、困難にさせ、そして不安にさせるものだ。そして、精神の贅肉を削ぎ落とされ、まとっている殻を溶かされ、裸の発光体にさせられるものだ。

自転車で峠を目指しているとき、あれが峠かなと思って辿り着くと、間違いなくその先に延々と道は続いているものである。
僕は、数年かけて、ようやく一つの作品を書き、提出できた。濃い霧の中、ここが峠だと思い、力を振り絞るようにして到達した。しかし、風が吹き、霧が晴れると、やはり道は続いている。遥か彼方まで続いている。そのことを認め、また自転車にまたがり、歩む覚悟もある。

峠ではなかったけれど、その場所はその時の到達点ではあった。その時の、最高到達点ではあった。だから、できるのならば、その場所に名前を与えられたい。
名前を与えられなくとも、そんなことで前進することを辞めはしないが、与えられると、目印になる。地図の上での自身の歩みを確認できる。

僕はいま、7月はもういちど舵取りをする時期だと強く感じている。
再度星の位置を測り、海図と照らし合わせ、目指す海域へ大きく舵取りをする時期だと思っている。
そして7月16日の選考会はよき合図になると思う。

…いずれにせよ、結果はここにすぐに報告します。
あと二週間後です。

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2005年07月01日

『神話の力』

『神話の力』(早川書房)を読み終えた。
神話学者のジョゼフ・キャンベルと、ジャーナリストのビル・モイヤーズの対談集だ。
線を引いた箇所、ページを折った箇所からいくつか抜き書きしてみる。

モイヤーズ  なぜ神話は夢と違うのでしょう。
キャンベル  ああ、それはね、夢は私たちの生活を支えている、あの深くて暗い基礎についての個人的な経験であるのに対して、神話は社会の夢だからです。神話は公衆の夢であり、夢は個人の神話です。
(p90)

キャンベル  神話は生かされるべきです。それを生かすことのできる人は、なんらかの種類の芸術家です。芸術家の役割は環境と世界との神話化です。
モイヤーズ  芸術家は現代の神話作家だとおっしゃる?
キャンベル  昔の神話作家は現代の芸術家に当たるわけです。
(p161)

キャンベル  今朝の新聞になにが載っていたか、友達はだれだれなのか、だれに借りがあり、だれに貸しがあるのか、そんなことを一切忘れるような部屋、ないし一日のうちのひとときがなくてはなりません。本来の自分、自分の将来の姿を純粋に経験し、引き出すことのできる場所です。これは創造的な孵化場です。はじめは何も起こりそうにないかもしれません。しかし、もしあなたが自分の聖なる場所を持っていて、それを使うなら、いつか何かが起こるでしょう。
(p173)

モイヤーズ  でも、神話は絵空事じゃないのか、という人がいますね。
キャンベル  いや、神話は絵空事ではありません。神話は詩です、隠喩ですよ。
(p292)

神話と夢と芸術と詩。
神話の力とは、隠喩の力なのだろうなと思った。

神話について、数年前から持続的に興味を持っている。
時々で温度の強弱はあるけれど、興味を失うということはない。
神話について考えることは、宗教、哲学、人類学、文学、芸術について考えることでもある。
そして自分の生き方について考えることでもある。
うまく言えないが、大切だと感じている。

神話がよく扱うテーマ
・全ての生命は他の生命を奪ってしか生きられない、ということ。(食べること)
・「子供」から「自立した個人」、「社会人」になるということ。(成長、社会、大人について)
・「私」は個として存在するのか、大地の一部なのか。(生死、存在、不安について)
等々。

神話は、間違いなく「本当に大切なこと」を扱っている。
だから、神話について学ぶことは、「本当に大切なこと」の所在について学ぶことでもある。
思考停止をしないこと、忙しさにかまかけないこと、目を曇らせないことでもある。
そして人生を「本当の意味で生きる」という「冒険」にすることでもある。

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