2006年05月07日
自分を開いていく、訓練
自分にとって「次」とはなにか、しきりに考え続けている。
たぶんもう考えすぎるぐらいだと思う。
なにか、祈りに似たとても強くもどかしい想いがあり、それになかなか形を与えられず、とても歯がゆい。
何でもいい、とにかく実際にアウトプットしてみること。
そうもおもい、いろいろやってみても、なにか今一つ満足しない。きっと自分の実力が決定的に不足しているのだと思う。そのことが分かっただけでもよしとしなければ。そう言い聞かせても、やはり心はざわつく。ただ恥をかいただけなのではないか、と。そう思ってしまうと、とても苦しい。
このようなざわつきは、「次」へと向かわせる力になる。もう一山も二山も、体験の山を越えなければならないと痛感する。自分の無力さが、なにかとても悔しいのだ。
自分のなかの、とても強いもどかしさを持て余し、「自分」などというものを表現しようとすることにうんざりしている。でも、世界は自分のフィルターを通してしか見渡せない。
いま読んでいるエッセイに、こんな言葉があった。
不思議な静けさに満ちていて、それでいて開かれている。
向こう側に、自分を開いていく、訓練。
(『ぐるりのこと』梨木香歩)
著者がイギリスの断崖近くをトレッキングしているときに、すれちがった人が言ったことばと、断崖の近くで瞑想していた人が、瞑想を終えて著者と話したときに言ったことば。
「自分」の域から出ることは、死ぬまで叶わないのだから、この自分のままやっていくしかない。しかしそれでも、向こう側に、自分を開いていくことは、意識すればできるのではないか、そういう行為からなにか自分が成長していくきっかけをつかめるのではないか。それは村上春樹さんの言葉でいえば、自分の井戸を掘り続け、普遍の水脈にたどり着く、ということなのかもしれない。
「自分」の域内で共感を求める言葉ではなく、向こう側へと、自分を開いていくような言葉、そういう流動する言葉が、言葉のつらなりを作品にするのではないか。
焦るのがいちばんいけないのだろう。焦ると、安易な結果を求めてしまう。そしてそういう結果には、とうてい満足できない。だれが、どれだけ評価しても、しなくても。
深く、考え続けること。そして、自分を体験へと駆り立てること。
忘れかけていた少年の夢のような心躍る体験をひたすら求め、一方で、静かに自分を開いていくこと。
そういう地点に立つことからしか、言葉はつむげないのではないか。
投稿者 tsuyoshi : 2006年05月07日 01:59
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://hanamote.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/95
