2006年09月13日
映画「A」、「A2」
一週間ほど前に、ドキュメンタリー映画「A」「A2」を二本立て続けに見た。
それからずっと、あの映画は何だったのか考え続けている。映画の中のいくつかの場面が、ことあるごとに思い出され、混乱したり、葛藤したり、重い気持ちになったりしている。直視することを本能的に避けている闇を、あえて直視するような映画。見終わった後に、世界の見え方がぐにゃっと歪んでしまうぐらいの衝撃的な映像だった。
地下鉄サリン事件後のオウム真理教団の信者たちを追ったドキュメンタリー映画。森達也監督。
監督の持つカメラは、教団の内部も外部も自由に行き来していた。教団も、教団と衝突する組織も殻を閉ざすようにかたくなになっていたが、カメラだけは境界などないかのようだった。
このような視点は、マスメディアの報道では見たことがなかった。外側から教団をあるレッテルを張って報道するものしか見たことがなかった。
マスメディアという「組織」と、フリーランスの「個人」の立場でカメラを回す森達也監督の視点の違いが如実に現れていた。
「個」であれば、組織と組織とが衝突し憎しみ合うような状況でも、その境界をすり抜けて、両者の間を行き来し、組織の内部の「個」にアクセスできるということ。これは本当に大切なことだと思った。
このドキュメンタリー映画は、「教団」と「マスメディア」、「教団」と「警察」、「教団」と「地域住民」など、ある組織と、別のある組織とがぶつかる場面があまりに多くて、その憎しみ合いの泥仕合を見ていて、本当に重たい気持ちになった。
そして、憎まれ、怖がられ、排除されようとしている組織を、視点を変えて排除される側から見たら、世界はこんなに恐ろしく見えるのかと思った。
また、組織の内部にいるときに、個は思考停止してしまうということもありありと描かれていた。
内部にいる人間は「自分は個としてまっとうに判断している」と思っているけれど、外部からみると、組織のアイデンティティーに同化し、硬直してしまっているように見えるのだ。とても窮屈な入れ物に自分を押し込んで、そこで安心して蓋をしているように見えるのだ。そして、「個」としての判断は停止し、組織に盲目に従ってしまう。その「盲目に従う」という行為の結果が、害のないものであればいいが、罪の意識が希薄なだけに、ときおりひどい結果を生んでしまう。
それは、教団内部にいる人たちだけのことではない。テレビ局、警察、町内会という組織にも同じように感じたから衝撃的だったのだ。相対的な視点を持つことの大切さを、カメラの立ち位置から痛いほど感じた。「個」と「組織」ということを強く考えさせられた。そして、自分の立ち位置を自覚することの大切さを改めて感じた。
「個」は何らかの「組織」(具体的には国家、会社、学校、教団、地域、家族など)に属することなしには立ち行かないが、その属する組織は、社会での立ち位置を得る場ではあっても、決して絶対視してはいけないのだと思った。組織に幽閉されることなく、つねに開かれている部分を確保しておかないと、知らずに他者を激しく傷つけるようになってしまう。
組織には、片足だけ入れておくぐらいがちょうどいいのだろう。そういう「個」と「組織」とのちょうどいい距離、ちょうどいい間合いは、何度も失敗し反省しながら見つけていくしかないのだろう。そしてそのちょうどいい距離を見つけることが、自立すること、大人になるということ、あるいは社会人になるということなのかもしれないと思った。
…
映画は、泥仕合の重たい気持ちにさせられる場面がとても多かったが、その中で唯一、「A2」にあった地域住人と信者とが仲良くなっている場面には救われた。あれは本当に美しい場面だった。
はじめは教団施設をその地域から排除しようと躍起になり、有志で監視テントまで建てて見張っていたおじさんおばさん達だが、言葉を交わしているうちに段々仲良くなり、最後には、ある信者がその施設を離れるときに別れを惜しみ、涙ぐんでいるのだ。
排除しようとしていた人たちが、別れを惜しんで涙ぐむという光景は、ものすごい矛盾なのだが、感動的な光景だった。個が組織同士の境界をすりぬけて交流した、ということなのだろう。
それをよく表していたのが、お互い名前で呼んでいたことだ。「オウム」と呼んでいない。「地域住民の方」と呼んでいない。ただ「○○さん」と呼んでいた。
組織としての嫌悪感を越え、個人として、その人柄が見えるところまで近づければ、あとは個人と個人の相性の問題になる。組織としての嫌悪感はそのままでも、個人としては受け入れられる、場合によっては友情すら抱けるということは、一つの希望だった。嫌悪を越えて個人の顔が見えるところまで近づいていったその地域住民の方々の行為は、一番勇気がいることだ。
排除することで安心を得るのではなく、組織を越え、個人にまで近づくことで危険性を無化するという解決は、両方の側に越えようとする意志がないと無理なのだろう。どちらかがかたくなになってしまうと、境界の壁は厚くなるばかりで、顔が見えないまま憎しみ合うことになってしまう。
…
組織が「悪」を自分たちの「外」に排除してしまおうとすると、衝突と憎しみがうまれるばかりだが、個人においても「悪」を内面から排除しようとすると、どこか歪んでいくと思った。
映画では、信者たちの修業の様子もたくさん映されていた。それは痛々しいほど純粋に、個が抱える煩悩を排除しようとしているように僕には見えた。現世が抱える矛盾、欺瞞、混乱、葛藤、汚れなどを自分から切り離そうとして苦しんでいるように見えた。
そしてそういう行為は、僕自身にも憶えがあるから、よけいにリアルに痛々しく見え、目を逸らしたくなるほどだった。
この映画を見てから、すぐに思い出されたのは村上春樹さんの『約束された場所で』だった。信者、元信者へのインタビューと河合隼雄さんとの対談で構成された本なのだが、その対談の中で河合さんは「自分の悪というものを自分の責任においてどんだけ生きているかという自覚が必要なんです」と言っていた。「悪を自分の中で抱えていないと駄目」とも言っていた。
悪を排除し純粋になろうとすると、どうしても外に悪を作らなくてはならなくなる。組織でも、個人でも、悪を排除するという考えは、外側に悪を作るということと同義なのだろう。そして純粋にストイックに内部から悪を排除しようとすればするほど、外の悪は巨大になり、その非対称に耐えられなくなり、テロ行為などの攻撃を起こさないではいられなくなってしまう。
「自分の悪を生きる」ということ、「悪を抱えて生きる」ということ。これは矛盾を抱えたまま、葛藤し続けるということで、はっきり言って大変だ。
でも悪は、光の照射によってできる影みたいなもので、角度を変えれば悪も変わる。もともと一つのものを、光の照射角を固定し、影の部分を「悪」と名付けて切り取っても、それは自分自身を激しく損なうだけだし、取り返しがつかなくなる。
きっと、悪と善とのあいだには、明確な境界などないのだ。それは線のようにはっきりとしたものではなくて、夜から朝にかけて徐々に空が明るくなっていくように、きっとグラデーションのようなものなのだ。そしてそのグラデーションも固定されてはいないのだ。夏から秋へ、徐々に日照時間が短くなっていくように。
夜の真っ暗な闇の深さを、見ないよう、見ないようと目を逸らし逃げていても、いつかは追いつかれる。そしてそうやって追いつかれると、受ける傷は致命的なまでに深くなってしまう。
だから、ときにこのような闇を直視する作品に接することが必要なのかもしれない。闇を抱えていることを自覚するために、あるいは矛盾や葛藤を投げ出さないために。
毎回このような重たい作品ばかりだとキツすぎるが、少なくとも今の僕にとっては必要だ。レンタルビデオ屋で借りる時は本当に気が進まなかったのだが、心の奥底で「絶対見ろ」と強く言っていたから、意を決して借りたのだ。そして、見てほんとうによかったと思っている。昼の光だけでは世界のバランスはとれないのだ。自分自身のバランスも悪くなるのだ。
心に傷を受けるような作品だが、傷は時間とともに癒されていくし、癒された後は、もしかしたらもう少しだけ世界は豊かになり、もう少しだけ人に対して優しくなれるかもしれない。だから、本当の「癒し」は、心に傷を受けるような作品の中にこそあるのだろう。
投稿者 tsuyoshi : 2006年09月13日 21:33
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