2006年10月23日
伝わらなさをこそ
先日もそうだったのだが、ときおり初対面の方と話す機会がある。
そして、話しているうちに何か共振するものがあるとそれがどんどん増幅されていき、ひじょうに得難い時間を過ごせたなと思いながら別れる。
でも、それが得難いかけがえのない時間であればあるほど、なにか後で、ざらざらとした違和感のようなものが残るように思う。のどの奥に小骨が刺さって取れないような、擦りむいたひざがだんだん痛みを帯びてくるような、地団駄を踏みたくなるようなもどかしさが残ってしまう。
伝え切れていない、あるいは決定的な誤解を抱かせたまま伝わっているというような思い。そしてその誤解は、おそらくもう一度会って誤解だと説明しても訂正しきれない深い領域での、もはや誤解という言葉では回収しきれないものだと思う。
仕方がないと思いながらも、とても残念なことだと思っていた。
しかし今日、脳科学者茂木健一郎さんのクオリア日記にこのように書かれているのを読み、何か目が見開かれるように感じた。
この世界で生きていく上で最も
大切なことのひとつは、お互いに容易に
理解し合えない、しかしそれぞれが
固有の豊饒を抱いた世界の間で引き裂かれる
ことを体験することではないか。そのようにして、初めて世界の中に
並列する不可視で多様なものたちの豊かさに
感謝する気持ち、簡単には見ることのできない
他者を思いやる心が生じる。一つの世界の中での安住よりは、
引き裂かれてありたい。そのようにして、初めて魂の運動が始まり、
気付きの時も訪れる。
深く会話をするということは、もしかしたら引き裂かれてあるということを確認することなのかもしれない。もしかしたら伝わらなさをこそ確認しあうのかもしれない。
伝わらなさを想うときぼくはよく、
広い海の真ん中で、小舟に乗っているというイメージを抱く。
その小舟は一人乗りだから、もう一人乗り込むことはできない。
友人たちは波間から見え隠れしている。
ときおり、捕った魚と海草を交換できるぐらい近くに来れたりもするけれど、
潮流にながされて視界から消えてしまうこともある。
そして潮流の偶然の采配で、この広大な海のなかで、新しい人と出会ったりもする。
そんなイメージを、いつからか育てていたように思う。
それは言い換えれば、「個」であることを引き受けるレッスンをしているということだろう。そして、このようなことを直感的に共有できる人とは、縁あって出会えたときに得難い時間を過ごせるように思う。
投稿者 tsuyoshi : 2006年10月23日 19:54
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コメント
はじめまして!!
クオリア日記から、風にのってまいりました。
私は、まったくの素人ですので、
何がしかのものことを申し上げるような言葉を、まったく持ちませんけれど
文章を書くことを、日々なさっていらっしゃる方と想い
つい、お話を伺ってみたくなりました。
私も、舟という言葉に想いをのせて
ゆれる波間に送り出すような…
相手のところに届くのやら
届いたとしても、その想いの何がしかが伝わるものかどうか…
心もとなさを感じることが、ままあります。
時々お邪魔させてください。
投稿者 風待人 : 2006年10月24日 15:27
風待人さま、はじめまして。
今日、『私という小説家の作り方』(大江健三郎著)という本を読んだのですが、その本の中に「言葉の海の共有」という言葉を見つけました。
広い海を一人乗りの小舟で漂っている光景は、それぞれの小舟が抱えきれないほどの孤独を抱えているけれど、でも、漂っている無数の孤独な小舟は、言葉の海を共有しているというイメージ。
そんなイメージについて、今日は長い時間考えていました。
コメントありがとうございました。
投稿者 tsuyoshi : 2006年10月25日 02:01
