2006年10月27日

急坂はじまる

ひとつ前の文章に、なにか一般論のような書き方で初対面の方と話したあとのことを書いたけれど、あれは間違った書き方だった。あれは「その人」と話したあとに感じたこととして書くべきで、一般論のように書くべきではなかった。
なぜこんなことをいちいち書くかと言うと、あのあとから急坂が始まったからなのだ。

平坦な道をだらだら漕ぎながら惰眠をむさぼり、適当に本を読み飛ばし、生活のリズムもめちゃくちゃで、長い長い待機の時間の中で、手探りだけはずっと続けながら、焦燥と嫌悪にくたくたになっていたのだが、やっと手が何かに触れたのかもしれない。「気づき」があったことは確かだ。本当に追いつめられなければ重い腰は上がらないのだなあと、いま思っている。

具体的には、「本を、一冊ずつ、もっと丁寧に読んでいく」ということ。
趣味の域を越えて、言葉に深く関わる仕事をしていきたいと、思い定めているわりには、ぼくの読書経験は浅すぎるとずっと思っていた。
尊敬する作家たちはみな、10代のころの読書経験がとてつもない。でも僕は本を読むことが生きる糧になってきたのは20代の前半からで、しかもいろいろな作家に魅了されてはきたが、限定的な読書だった。10代はまったくと言っていいほど本を読んでいない。どちらかというといままでずっと、読書よりも山とか旅に深く心を奪われてきた。

20代の前半に開高健の『夏の闇』を読んでから本に(というより開高健に)魅了された。それからしばらくして宮沢賢治、星野道夫、村上春樹、梨木香歩、谷川俊太郎などに魅了され、それなしでは生きられないぐらい深くそれらの作家の言葉を必要としてきた。
でも、やはり浅いのだと思う。読んだ本の冊数などではなく、ただそう感じるだ。上記した作家の自伝やエッセイを読むと、その10代前半からの圧倒的な読書経験の深さと広さにたじろいでしまう。

いいものを書きたいと思うのなら、いい本をもっとちゃんと読む必要があると、本当に思ったのだ。もう15年ぐらい早く気づけたらよかったのだけど、それはまあ仕方がない。いまから一冊ずつ、気迫を込めて、読んでいる時間は自分の全部を没入させるように読むしかない。そのように、もう待ったなしの状況に追い込まれていると思ったのだ。(やっとそのように思い込めたのだ)

そういう具体的な急坂がはじまり、いまはせっせと登っているところ。
いままで時間は叩き売りしたいほど有り余っていたけど、いまは寝る間も惜しいと思うから不思議だ。
心に誓っているのは、数を読もうとしないということ。
読むべき一冊を、ゆっくり、丁寧に読む。
きっとそうやって読むことが、結果的には数にもつながっていくはず。
(でも、読み始めてみて浅い本だと気づいたら、ギヤを切り替えて一気に読んでしまおう。)

それから、人と会い、展覧会へ行き、映画をみて、山などに行くということも、「出会う」という本質は変わらないから続ける。ただ、時間は限られているから、全部を満遍なくはむりだ。

人と会うときも、できるのなら、全存在でそのひとの前にいれたらいいなと思う。でも、相手も自分も肩こったりしないでそういうふうにいられるのは、なかなかむつかしいことだ。

投稿者 tsuyoshi : 2006年10月27日 07:28

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://hanamote.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/130