2007年02月07日
このままずうっとあるいていくと
「このままずうっとあるいていくとどこにでるのだろう」
谷川俊太郎さんの「とおく」という詩のなかに、女の子がこう自問する一節があります。僕もこのごろ散歩をしているときなどに、同じように思ったりします。
昨日、南阿佐ヶ谷にある「書源」という本屋(すばらしい品揃えの本屋。週に4、5回は行ってるのに、いつ行っても10冊ぐらい欲しい本に出会ってしまう。)で、白川静さん著の『常用字解』という字書と『文字講話Ⅰ』という講演録を買いました。
今まで漢字に興味を持ったことは一度もありませんでした。すぐにど忘れするのでむしろ苦手でした。だから自分でも急に漢字の成り立ちに興味を抱いているのに驚いているのですが、正確にいうと漢字学に興味を抱いているというより、白川静さんに惹かれているのだと思います。
白川静さんのことは毎号買っている雑誌「風の旅人」の連載や、その雑誌の編集長のブログ(繰り返し語られているのですが、「ユーラシアの風景」と「風の旅人」と白川静さん、信実の道を逝くのエントリーが最も情熱的に語られています)などで知りました。だからいつか読みたいとは思っていたけれど、漢字にはそれほど興味がなかったのでいままで手に取りませんでした。
読んでみようと思ったきっかけは友人が「取」や「最」のなりたちを教えてくれたからです。そして読んでみると「本当に面白い」と感じました。きっと出会うタイミングがとてもよかったのだと思います。
なにがそんなに面白いのかというと、たとえば就職や成就などに使う「就」という字です。「白川静さんに学ぶ 漢字は面白い」にはこう書いてあります。
この字は「京」と「尤」でできています。「京」は出入り口がアーチ形をした都の城門の形です。(中略)「尤」は死んでいる犬の形。城門の落成式の際、犠牲の犬の血を振りかけて清めることを「就」というのです。これで城門の築造が成就するので、「なる」の意味となり、成就することによって、ことが始まるので「つく」(地位や状態に身を置くこと)の意味となりました。
「就」は「城門に犬の血を振りかける図」だということ。
この説明を読んで僕は、すぐさま村上さんの『スプートニクの恋人』を思い出しました。
『スプートニクの恋人』のはじめの方で、小説家志望の「すみれ」という女性が、「小説家になるために持っていなくちゃいけない、何かすごく大事なものが」欠けているのではないかと悩み、「ぼく」に相談する場面があります。
相談された「ぼく」は、昔の中国の門の話をします。昔中国では、城門を作るときに、古戦場へ行き散らばっている骨を拾い、それらの骨を門に塗り込めたのだと話します。
「(…)でもね、それだけじゃ足りないんだ。門が出来上がると、彼らは生きている犬を何匹か連れてきて、その喉を短剣で切った。そしてそのまだ温かい血を門にかけた。ひからびた骨と新しい血が混じりあい、そこではじめて古い魂は呪術的な力を身につけることになる。そう考えたんだ」
すみれは黙って話のつづきを待っていた。
「小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」
「つまり、わたしもどこかから自前の犬を一匹見つけてこなくちゃいけない、ということ ?」
ぼくはうなずいた。
「そして温かい血が流されなくてはならない」
「たぶん」
すみれは唇を嚙んでひとしきり考えていた。気の毒な小石をまたいくつか池の中に投げ込んだ。「できたら動物は殺したくないな」
「もちろん比喩的な意味でだよ」とぼくは言った。「ほんとに犬を殺すわけじゃない」
(『スプートニクの恋人』講談社文庫より)
白川静さんの本を読んでいると、漢字の成り立ちがいかに「呪術的な洗礼」を経ているかがよく分かります。「道」という字になぜ「首」があるのか。「道」の解説にはこうかいてあります「切った首を持って、道を行く字形。道を行くとき異族の人の首を刎ねて、道に潜む邪霊を、その首の呪力で祓った」
『スプートニクの恋人』にはこの後、「血は流されなくてはならない」という意味のことが非常に重要なモチーフとして繰り返し登場し、もっとも強く印象に残りました。(だからこそ、「就」の成り立ちを知ったときにすぐにこの小説を思い出されたのです。)
ある話が「小説」になるということと、ある図が「文字」になることには、本質的なところで同じものがあるのだと感じられます。このような相似には、そこに秘められた「何か」があることが感じられます。しかしいまはその「何か」がなんなのかうまく分かりません。きっとそれが分かるためは、僕も「自前の犬を一匹見つけてこなくちゃいけない」のでしょう。
白川さんと村上さんとは、もともと全く違う興味の方向から読んでいました。こういった、異なる領域にあるものが急接近するということはとても嬉しい経験です。
起源問題に敏感になること。
その大切さを茂木さんはブログや本や講演などでしきりに触れています。
白川静さんを学ぶことは、自分の話している言葉の起源を知ることです。無意識に、当たり前に使っている言葉の起源を知るということです。
梨木さんの『沼地のある森を抜けて』や映画『もんしぇん』の影響で、進化生物学にも興味を抱きつつあります。脳科学や進化生物学は、科学の方面から起源問題を探ることなのだと思います。
その科学の方面からの興味として今読んでいる本が、『胎児の世界 人類の生命記憶』三木成夫著です。まだ読みはじめたばかりなのですが、今日その本に「『説文解字』によると…」というくだりを見つけ、驚きました。『説文解字』は、白川さんの本にさんざん出てくるのです。(この『説文解字』という本は1900年ほど前の中国の大学者の書いた漢字の成り立ちを記した本で、長らく字源辞典の聖典だったのですが、白川静さんがその聖典を覆し新たな体系を打ち立てた、というものなのです。だから白川さんは世紀の大学者なのです)
このように、興味がある分野の本をそれぞれ読んでいると、違う分野だと思っていたことが急接近することはよくあります。そしてそういうことが連続すると、なにか、精神の全域を使っているような気がして、とても嬉しくなります。窮屈な入れ物のなかに押し込まれた状態から、広い場所に出ていけるような気がするのです。
精神の全域を使い、心の全体性を回復していくという方向。ぼくはそっちの方向に、ぐんぐんと歩いていきたいと思っています。
うしろを振り返ると、すいぶんとおくに来たと思うこともあるし、まだまだ歩きはじめたばかりだと思うこともあります。でも、「このままずうっとあるいていくとどこにでるのだろう」という気持ちは常にあります。自分を実験台のようにして、このままずんずん歩いて行くと、いったいどうなっちゃうんだろうと、わくわくもするし、怯えもします。
わたしはよっちゃんよりもとおくへきたとおもう
ただしくんよりもとおくへきたとおもう
ごろーよりもおかあさんよりもとおくへきたとおもう
もしかするとおとうさんよりもひいおじいちゃんよりも
ごろーはいつかすいようびにいえをでていって
にちようびのよるおそくかえってきた
やせこけてどろだらけで
いつまでもぴちゃぴちゃみずをのんでいた
ごろーがどこへいったのかだれにもわからない
このままずうっとあるいていくとどこにでるのだろう
しらないうちにわたしはおばあさんになるのかしら
きょうのこともわすれてしまっておちゃをのんでいるのかしら
ここよりももっととおいところで
そのときひとりでいいからすきなひとがいるといいな
そのひとはもうしんでてもいいから
どうしてもわすれられないおもいでがあるといいな
どこからかうみのにおいがしてくる
でもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける
ーー詩集『はだか』谷川俊太郎より、「とおく」
投稿者 tsuyoshi : 2007年02月07日 02:02
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