2008年07月15日
沢の境界にて
先月の上旬、沢に入って二日目に、ある沢の源流部で小鳥が死んでいるのを見つけた。小鳥が冷たい水の流れに半身を浸し、目を閉じ横たわっていた。
その日は朝から細かい雨が降ったり止んだりしていた。冷たい水の中に横たわっている光景は、いかにも寒そうだった。死んでからもう数日は経っているのだろう、羽はあまりなく、肌の色はすこし白くなっており、なにか疲れたような、かなしい表情をしていた。
どうしようか、と思った。
その日は朝から冷たい雨に打たれ、僕はずっと寒さを感じていた。こんな寒い日に、こんな冷たい水の中に横たわっているのはやはり寒かろうと思い、近くの土の中に埋めようかと思った。しかし同時に、「寒そう」などというのは、人間の勝手な感傷だとも思った。「自然」の中で、人間のいない場所で、おそらく人間とは関係のない理由で、小鳥は死に、この場所に横たわっているのだ。ここで小鳥はこの場所になっていくのだ。人間の勝手な感傷などで、むやみに動かすべきではないのではないか、とも思った。
しばらく雨に打たれ迷いながら、じっと水の中に横たわる小鳥の様子を見ていた。長く見れば見るほど、目を閉じ、かなしそうにくちばしを閉じている光景が、寒そうに思えてきた。そしてこのままこの場を立ち去ると、この小鳥の寒そうな表情をずっと自分の記憶の中に抱え続けることになるなと思い、ここは僕自身の寒さを和らげるという目的で、土に埋めさせてもらおうと思った。そしてすぐ近くに小さな穴を掘って埋め、手を合わせた。
「人間」が「自然」に手を加えるということ。
そのことをずっと考えている。
小鳥を埋めてから数日後、僕は別の沢を遡行していた。
その日はいくつかの大きな滝を登った。ある滝では、滝の上に着いてからロープを近くの木に固定し、器具で確保し、落ち口から空中に身を乗り出すようにし、水が落下する様をずっと眺めていた。水が落下し、滝壺に叩き付けられる光景を眺め続け、その場を満たす荒々しい音に身を浸していた。それまでさらさらと流れていた沢の水が突然空中に放り投げだされ、落下していく光景は、いくら見ても見飽きなかった。
夕方そろそろ暗くなってきたころ、沢沿いの小高くなったところに、野宿に適した場所を見つけたので、今晩はここに泊ることにした。
さっそく薪を集め、焚き火をする。
焚き火を眺めながら、ごはんを食べる。
そして、もう暗くなった森の中で、オレンジ色の熾きになった焚き火を眺めながら、明日の天気を確認するためにラジオを聞いていた。
普段はテレビを見たり新聞を読んだりしないので、ニュースに接することはあまりないのだが、山に入ると明日の天気を確認するためにラジオを聞くことになる。そしてそのついでにニュースも聞くことになる。
ラジオのニュースに耳を傾けながら焚き火をいじっていたら、アナウンサーが、ある動物園で起こった事故を伝えた。ある動物園の飼育係が、トラにえさをあげるために檻の中に入ったときに、閉めてあるべき扉を閉め忘れ、トラに殺されたというニュースを放送していた。
ラジオでニュースを聞くと、否が応でもその光景を想像することになる。僕は、暗い森の中で、テントの前に座り、焚き火を眺めながら、その光景をありありと想像し、深い衝撃を受けていた。きっと、毎日のことだからか、ちょっとだけ注意が散漫になってしまっていたのだろう。何か別のことを考えていたのかもしれない。そしてふと気配を感じ振り向くと、閉まっているべき扉が閉まっておらず、いつもの、見慣れたトラと同じ場所にいて、気づいたときにはもう手遅れだったのだろう。
いつもえさをあげているトラに食い殺されるという出来事があまりに痛ましく、飼育員が感じたであろう恐怖をありありと想像し、言葉にならない。トラは、犬や猫のように飼いならすことができないということ。いつもえさをあげているからといって、人間の都合のいいようにはトラは変わらないのだということ。飼育員でさえ、トラにとっては食い殺す対象にしか見えないのだということ。
森の闇が、一段暗くなったように感じた。
その闇の中で、沢の流れる音を聞いていた
かすかな音を立てて燃えている焚き火が美しい。
ゆっくりコーヒーを飲みながら、ずっと焚き火に見入っていた。
「自然」とは何なのか、「野性」とは何なのかを考えている。
そして、「人間」と「自然」との間にある、抜き差しならない隔たりについて考えている。それでも人間は自然の一部だと実感できるようなビジョンを持つことができるのだろうか。自分は世界から切り離された存在ではないと実感できるような道筋があるのだろうか。
次の日は一日中、淡々と歩き続けていた。
前日の天気予報では、山間部では雨が降るかもしれないとのことだったが、ときおり曇るだけで雨は降らなかった。昼過ぎには日の光も差し込んできた。ゆっくり水の流れをみながら歩き、夕方やや日が陰った頃、前日と同じように沢沿いの小高い場所を見つけ、テントを張る。そこは倒木や転がっている石や岩などにびっしりと苔が生い茂っている場所だった。触ってみると苔の分厚さがすごい。
いつものように薪を集め、焚き火を起こし、食事をし、テントの前で日記を書く。それからラジオを取り出す。
スイッチを入れると、アナウンサーが緊迫した声で秋葉原の通り魔事件を伝えていた。事件の状況、目撃者の話、被害者の容態、容疑者の供述、過去の同様の事件との比較。繰り返し、繰り返し、伝えていた。
一通り聞いてから、ラジオを消し、焚き火に見入った。
そして、前日と同じように、その状況をありありと想像してしまい、言葉にならない。車で人ごみに突っ込んでいく光景、後ろからナイフで次々と突き刺す光景、警官に取り押さえられる光景、その一つ一つを想像していた。そして、そのときの容疑者が体験したであろう感触や、心の内を占めていたであろうものを想像し、吐き気がするほど嫌悪し、ほんとうに言葉にならない。
焚き火を見ながらずっと、彼もまた獣に食い殺されたのだと思っていた。彼の内なる自然に住む獣が、絶対に檻の中に入れておくべき獣が、不用意に外にまで出てきてしまい、理性を食い殺したのだと思っていた。その、絶対悪ともいうべきグロテスクな獣に食い殺される光景が頭から離れなくなった。
焚き火を眺め、焚き火の背後にある闇に目を凝らし、水の流れる音に耳をすまし、そして、自分は水源域に行き、いったい何をしようとしていたのかを思い出そうとしていた。
一年ほど前、水源域を撮っていこうと思いついたときに、はっきりと見えていたビジョンは何だったのか。ぼくは確か、「人間」と「自然」との間に橋を渡していこうと思ったのではなかったか。原初にある美しい流れが人間にも流れ込んでいること、それを一つのビジョンとして示すことができるのではないかと思い、夢中になって沢に通ったのではなかったのか。
沢の美しさに夢中になっていたときには、感じてはいても前面には出てこなかった闇の側面が、ふたつのニュースを沢の中で聞くことにより、急に立ち上がってきていた。
人間の内側にある自然。
その内なる自然にも、外なる自然と同様に、この上なく美しい光景があるのと同時に、決して飼いならすことのできない獣が住んでいる。だから、不用意に扉を開けるようなことはしてはならない。向こうからこじ開けようとしてきたら、命がけで閉めておかなければならない。もしこじ開けられたら、すべてを後回しにして逃げなければならない。
人間と自然との間にある、
自分と世界との間にある、
境界と、そこにできる裂け目。
そのことをずっと考えている。
扉を開けていいのは、その準備ができたときだけだ。そしてそのときは間違いなく命がけになる。命がけで戦い、その獣を自分に統合していくことが、「自分になっていく」ということなのではないか。
次の日はずっと、ざわざわした心を抱えながら沢を歩いていた。そして必要以上に慎重になってしまい、かつて簡単に越えていった滝も、緊張して通過するはめになっていた。全然気持ちが入っていかなかった。没入し、夢中になっているときは、クリアな頭のまますべての動作が野生動物のようによどみなくでき、足を置く場所、つかむ場所などを迷いなく瞬時に判断できていたのに、そういう状態に入っていくことができず、ざわざわと胸騒ぎがして仕方がなかった。
予定ではさらにいくつかの別の沢へ行き、あと10日間ほど山の中にいるつもりだったのだが、その日は水源まで遡行し、荷物をデポしていた場所まで戻り、次の日一日中ずっと考え続けた。そしてやはり打ち切るべきだと思い、夕方に東京に戻ってきた。
三週間近く行く予定で、満を持しての計画だったはずなのに、一週間あまりで戻ってきてしまい、沢に「入っていけなかった」ことが何より残念だった。
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「白い光景への歩行」
たしかに手に触れたのではないか。怒りとともに。いらだちとともに。沈黙するしかないのだとしても、切断され、切り離された場所から、ことばを、ことばの断片を、放る。なにかが分かるということは、なにかを分けるということ。そうやって切り離したものを、つなげ、縫う行為の中にある、いらだちや、とどかなさ、失望は、確かに、それに、触れている。
流れ、響き、光が飽和している。白い光景の中で、飽和したそれが意味を無化する。歩くリズムの中で、水の流れの中で、炎のゆらめきの中で、本当はもう手にしているのに、目をつむり、見てはならないものなのだ。決して分けられてはならない。決して切り離されてはならない。くい破られる前に移動する。ことばは、切り離し、ことばは、つなげていく。切ってはつなげ、また切ってはつなげ、そうやって世界を受け取ろうとするときに立ち現れてくる光景がある。生きている
燃えている
流れていることわけられてもなお、世界のつながりを語ることができる。沈黙に耳をすますと、そこには沈黙が飽和した声がある。
歩いている
震えている
求めているとどかぬものへ、闇の深さの中へ、身体を、そのにじみ出る場所へと、ひたすらに歩行する。
流れ、響き、光が飽和している。直視してはならない。決して直視してはならない。ありったけの想いを持ちながら、破り、そしてまたつなげ、飽和した白い光景の中で、手にしているそれから目をそらす。生きている
燃えている
流れている
ー「わたくしという現象」ということば歩いている
震えている
求めているー「ひとつの青い照明」ということば
白い光景の中へ、入っていく。目をつむり、静かにそこでじっとしている。このいらだたしさは、ことわけられているいらだたしさだ。そしてこのよろこびは、それでもなお受けわたされているよろこびだ。ここでは水と光が、その透明さの中で飽和している。
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投稿者 tsuyoshi : 2008年07月15日 07:18
