2008年12月30日
自己凝視の先にある光景 「石田徹也ー僕たちの自画像ー展」
自転車に乗って、阿佐ヶ谷から中杉通りをずっと北上すると、
西武新宿線を横切り、西武池袋線の中村橋駅に着く。
駅のすぐ近くにある、練馬区立美術館へ。
「石田徹也ー僕たちの自画像ー展」
衝撃と、深い痛みを感じながら、一つ一つ、ゆっくり見ていく。見終わってから、もう一度始めから見直す。そしてさらにもう一度、気になった絵を、凝視するようにじっと見てから外に出て、もう暗くなった道を阿佐ヶ谷へ戻る。
彼のことは、本屋で立ち読みした画集で知っていた。
はじめ友人から展覧会があると聞いたときは、その閉塞感以外の何物でもない絵を、わざわざ見に行こうとは思わなかった。しかし、別の友人も見に行くつもりと言っていて、自転車ですぐに行ける距離だということもあり、行ってみたのだった。
彼が31歳で亡くなっているということ。
その事実が、どの絵にも付いて来てしまう。
彼の絵にはほとんどすべて、自画像と思われる男が登場する。その男は何年間もずっと無表情だったのだが、あるときを境に、明らかに変わっていく。
初期のころの、社会風刺的な作品のイメージしかなかったので、段々と作品のスケールが大きくなり、うつろな目をした自画像が、涙をためた目になり、そして、涙を流した目になっていったときに、ああ、10年間の自己凝視の果てに、普遍的な水脈にたどり着いている、修行僧のようにひたすら自画像を描き続けて、そして「自分」を凝視し続けたその先に、「自分」が消失した場所、水が流れている場所、波が打ち寄せている場所、そんな場所にたどり着いているのに、そこで彼は亡くなってしまった、そのことが痛ましくてならなかった。
この先の絵が見たかった。
晩年の絵を見ていると、この先にどんな世界が開けてきただろうかと思えて、残念でならない。この先、もし彼が生きていたら、自分がいない絵を描いたのではないか。あるいは、波打ち際、草原、海、川などと一体化した絵を描いたのではないか。そんなことを思う。
自己凝視した、自分という檻を見せられる作品は多い。そういう作品をみると、自分もまた狭い場所に押し込められるような閉塞感を感じさせられ、正直に言ってあまりいいものだとは思わない。
そういう狭い場所を抜けた先にあるものを見たい。
心が明るく開けてくるような、命が肯定されるような、自分の檻の扉が開くような作品。
それはきっと、とても美しい光景だろう。
石田徹也さんのHP
展覧会のHP
(展覧会はもう終わっています。)
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2008年10月19日
ケモノとシジンのマツリ 『白蛇ー神庭(カムイミンタル)』杉原信幸×山形淑華
先月の下旬、杉原さんから展示の知らせが来た。
長野県の木崎湖畔にある西丸震哉記念館にて、杉原さんと山形さんの展示とパフォーマンスがあるのだという。追って連絡があり、10月12、13日の連休あたりにパフォーマンスを行うとのこと。パフォーマンスに合わせ、長野へ行くことにした。
西丸震哉記念館へは、今年の春にも訪れている。そこは探検家、食生態学者の西丸震哉さんの収集品を展示しており、杉原さんはその建物や空間のデザインを担当したのだという。記念館の裏が杉原さんの実家になっており、その裏にかつて旅館だった建物が半分残されており、杉原さんのアトリエと住居、来客者の宿泊場所になっていた。
春に来たときはちょうど田植えの時期で、杉原さんの友人のYさんの田んぼで田植えを手伝わせてもらった。Yさんは東京から木崎湖へ移り住み、無農薬、有機栽培、合鴨農法で米を作られる方で、たまたま田植機の調子が悪く、人手を必要としていたので、喜んで手伝わせてもらったのだ。裸足で泥の中に入り、一つ一つ苗を植えて行くことがとても楽しく、あの春に植えた苗がどうなっているのかを見たいと思ったのも、長野へ行く大きな理由の一つだった。
朝新宿を出たバスは、五時間ほどかけ、予定より一時間遅れて信濃大町駅前に着く。ここから二駅ほど電車に乗った稲尾駅が最寄り駅なのだが、時刻表を見ると電車が来るのは一時間後。駅にある地図を見ると木崎湖畔まで4、5キロといったところ。バスの中に長い時間座っていたのでちょうど歩きたかったところでもあり、歩いて行くことにする。
朝からなにも食べていなかったので、駅の売店でおおきな肉まんを一つ食べ、それから地図を頭に入れて歩き出す。商店街をぬけ、国道を北へと進む。空が広く、視界の先には山があり、東京から来るとこんななんでもない道でも嬉しい。でも実はすこしそわそわしてもいた。果たして杉原さんの展示とパフォーマンスを見るために、いったい何人の人が長野まで来るのだろうか? もし僕だけしかいなかったらどうしようかと思ったりする。杉原さんのパフォーマンスはとにかく迫力があり、一人で見るのは正直こわいのだ。でも、東京のギャラリーでやるのとはわけが違うので、気楽に行くというわけにはいかない。行きたくても日程が合わないという人も多いだろう。前回の丸石座のときのような人数ではないことは確かだった。
一時間ほどで記念館にたどり着く。
中に入ると、杉原さんと杉原さんのお父さんがいて、挨拶をする。杉原さんは毎日山にキノコ採りに行ってるそうで、ずいぶん元気そう。二階から山形さんも降りてきた。彼女とは夏の初めに会って以来だ。ずいぶん髪が伸びていた。彼女もなんだか遠足前の子供のような感じで、元気そう。たまたまその日は西丸震哉さんご本人も来館されていて、杉原さんに紹介される。喜望峰から日本まで自転車で旅したということを紹介されると、ちょっと嬉しそうな顔をされ、それから「その経験がどんな役に立っていますか」と言われる。僕はとっさに「たぶんなんの役にも立っていないと思います」と答え、一同、笑う。なんだかこうやってあの旅をほどよい距離で眺められるようになっているのが嬉しい。西丸さんもうなずいて「無理に役立てようとする必要はないからな」とおっしゃられていた。きっと旅の経験は、直接的にはなんの役にも立たないけれど、あらゆることの後ろ側でいまでも息づき、すぐにぶれてしまう軸を正してくれるもののような気がする。もちろんこれは旅の経験だけではないけれど。
記念館の一階は食事もできるようになっていて、記念館特製カレーをナンとともにいただいた。とてもおいしい。食べていたら、杉原さんの友だちが二人到着した。OさんとTさん。杉原さんの高校の同級生だという。これでパフォーマンスを見るのが僕ひとりではなくなりすこしほっとする。食事をしながら、西丸さんご夫妻と話をする。夏にアルタイ山脈に皆既日食を見に行ったことを話すと、お二人はもう金環日食を入れると7、8回も見たことがあるということが判明し、しばらくは日食についての話が弾む。食後、ハーブティーを飲みながら、OさんTさんと話す。
お茶を飲み終えてから、いよいよ展示を見る。
記念館の地下に行くと、そこが展示室になっていて、手前の部屋に杉原さんの油絵、奥の部屋に山形さんの「白蛇」という詩と映像作品が展示されていた。まずは山形さんの映像に見入る。今年の夏、韓国と島根を旅したときに撮られたものらしい。川の流れをじっと見入るように撮ったもの、海のうねりに光が反射したもの、おおきなしめ縄がかけられた大木、風にゆれる網、洞窟のような場所、彼女のセルフポートレイトなどの映像が、次々と静かに切り替わる。どれも動きのある写真のような、静かな、深い視線のもの、あるいはその微妙な光や風の加減がハッとするほど美しいもの。山形さんはよくビデオカメラを持っていて、子供がありの巣に見入るようにじっとなにかを撮っているのだが、それがこのような視線のものだったのかと始めて知る。
次に杉原さんの油絵に見入る。鳥をモチーフにした、様々な色がねじれるようにうねる抽象的なもの。明るい生命力を感じさせられる作品。絵の具がねじれながら盛り上がり、他の色と混じりあっていた。
前回来たときはここに杉原さんの「裂け目」を描いたと思われる恐ろしい作品があった。黒々としたキャンパスの真ん中に、微妙な色加減で黒い裂け目が描かれており、以後あの裂け目が脳裏に焼き付いてはなれなくなっていた。あの闇の中の裂け目から、鳥がメタモルフォーゼしたような、生命力の塊のようなカラフルなものが出てきたのだろうか、などと思う。
地下から二階に移動する。
ここがメインの展示室になっていた。部屋の真ん中に、白い貝殻が楕円形に敷き詰められた「神庭(カムイミンタル)」と題された、杉原さんの作品が展示されている。ちょうど窓から斜めに光が差し込み、作品の上が明るく照らされ、はじめ見たときに、眺めのいい場所に出たような、視界が開けていく感覚があった。平たく光沢のある貝殻が中心付近に敷き詰められており、それがどこかの地形のような形をしている。周りはよく波に洗われた、白い、つやのない貝殻が敷き詰められている。そしてよく見ると、白い小さなドライフラワーのような花が3、4本立っている。白く、乾いた、化石のような、清々しい印象。情念が浄化された後の、もっと広い場所へと開いていくような印象。
展示室には、西丸さんがかつて収集したパプアニューギニアの人の頭蓋骨も置かれていた。その頭骨の白さと、貝殻の白さが、同質のようなものに感じられる。しかし僕は遺跡から発掘される骨の掃除や整理、同定などのアルバイトをしているので、頭骨をみるとどうしてもこれがどのような骨かと細部に見入ってしまう。(第三大臼歯は萌出しているから成人だな、眉間眉弓はかなり隆起し、乳様突起も大きいのでまず男性だ、江戸時代の人骨ではありえないぐらいかなり彫りが深い、南方の顔だ。頭骨の縫合がまあまあ癒着しているから、それなりに歳はとっていそうだ…等々)
その頭骨の横に、赤い巻貝で作られた大小ふたつの山がある。兎と題された、山形さんの作品。確かに兎と言われれば、そう見えなくもない。(ずっとあの兎はなんなのだろうかと思っていたが、これを書いているときにふと「因幡の白兎か?」と思い、どんな話だったのか調べてみる。ワニを騙し海を渡った白兎は、しかし最後の一匹のワニに皮を剥がれてしまう。そして通りがかった神様に助けられるという話だった。もし因幡の白兎だとすると、あの赤い巻貝の兎は、皮を剥がれた白兎、なのだろうか。)
壁には、大きな和紙に筆で書かれた、山形さんの詩が展示されている。言葉の断片をちりばめたような詩。ひとつひとつの言葉は読めるが、それが連なっても、意味が流れ込んでこない。彼女の詩はいつも、わからない。言葉の出し方が、日常的な言葉とはまるでちがう深みから取り出されているようで、まだ意味に分けられていない言葉、とでもいう気配がある。山形さんはいつもノートと鉛筆を持っていて、気がつくとそこに何かを書いている。幼稚園児が没頭して怪獣の絵を書くように、夢中になって書いている。しかし何を書いているのか見せてもらっても、文字らしきものが書かれているのは分かるが、読めない。単語が部分的に読めても、わからない。分からないというより、「分けられていない」という感じ。なんて書いてあるのかと本人に聞いても、本人さえ読めなかったりする。でもあの没頭して書いている様子には、なにかすごいと思わせられる気配がある。こういう詩を前衛的と言っていいのかさえわからない。言葉にならない言葉を、そのままとりだしたような詩。これはぜひ朗読を聞いて、「声」から何が書かれているのかを知りたいなと思う。
一階に戻り、OさんTさんと話していると、杉原さんが来て、キノコ採りに行こうと言う。荷物を置いて、ビニール袋を持ち、記念館のすぐ裏の山の斜面に入って行く。杉原さんはすごい早さでケモノのように辺りを歩き回る。彼の中でぐるぐるとすごい勢いでダイナモが回転している感じ。すぐに見えなくなってしまう。でもかれの持っているキノコを入れるかごには熊よけの鈴が付いていて、それが遠くからでもよく聞こえるので、OさんTさんと「あっちから聞こえた」「こっちのほうだ」と、鈴が鳴る方へと杉原さんを追いかける。やがて「おーい!」と声がして、答えて、合流する。そんなことを繰り返し、裏山の斜面を上がり、尾根筋を歩き回る。クリタケ、ハナイグチ、ホテイシメジなどを、杉原さんに教えてもらいながら採る。薄暗くなるまでキノコ採りをし、戻ってきてすぐに洗い、下ごしらえをし、事前に杉原さんがとっておいてくれたウワバミソウも入れ、キノコ山菜鍋になる。ご飯は、Yさんの田んぼでとれた新米を、精米したてのもの。夕方に東京からバイクに乗ってSさん登場。みなで、おいしいおいしいと鍋を囲む。
翌朝起きると、杉原さんはいない。一人でキノコ採りに行った様子。僕たちはSさんが持ってきた竿で釣りをするが、釣れない。近くの木崎湖温泉に入る。
昼前に、杉原さんがかご一杯ハナイグチを山盛りにして戻ってきた。きっと昨日は僕たちがいたからあれでもあまり歩き回らなかったのだろう。ひとりだと思う存分歩き回れるからか、僕たちがいたときよりも収量ははるかに多い。昼も、昨日の鍋にキノコなどを足したものと、お焼きなどをいただく。
午後、記念館の近くにクルミの木があり、クルミをたくさん拾う。それから記念館の一階でコーヒーを飲んでいると、杉原さんの友だちが二人、しばらくして、もう一人、到着する。みなで話したり、もう一度作品を見たり、前回の丸石座のパフォーマンスの記録映像を見たりしていたら、日が傾いてきた。パフォーマンスは日暮れに行われることになっている。そろそろかなと思っていたら、杉原さんが来て、はじめるからこいつに付いてってと言う。見ると、ちいさなリュックサックを背負い、頭からすっぽりとシャツをかぶり、オレンジ色になったホオズキの実を口から垂らし、稲穂を手にしそれで顔を隠した座敷童子のような姿の山形さんが、記念館の前にちょこんと立っている。僕たちはぞろぞろと記念館を出た。杉原さんはすぐどこかへいなくなった。こうしてマツリは始まった。
*
山形さんの前に、みな並ぶ。山形さんは無言で稲穂を皆の前にかざし、一人一人に礼をし、歩き出す。その後に、一列になってみな続く。
家の裏をぬけ、蓮の畑を横をとおり、田んぼのあぜ道を歩く。左手には木崎湖。つめくさの土手を登り、さらにあぜ道を歩くと、Yさんの田んぼが見え、Yさん一家(Yさんご夫婦、小学生、中学生ぐらいの女の子二人)が田んぼの前に待っているのが見える。山形さんの姿に、二人の女の子はちょっとびっくりし、何が始まるのか、怖くもあり、楽しみでもある様子。
Yさんの田んぼにたどり着き、山形さんは振り返り、皆に無言で中に入るように促す。
田んぼは、稲刈りが終わり、刈り取られた稲がはぜがけに天日干しされている。二枚のYさんの田んぼの間のあぜに、みな移動する。そしてなにが始まるのか、じっと山形さんを見守る。
山形さんは田んぼの前で、靴を脱ぎ、裸足になって、まだぬかるんでいる田に入っていく。そして持っていた稲穂を、はぜがけにされた稲にくわえる。それから、ゆっくりと動き出した。
ゆっくりと、手を動かし、足を動かし、前屈みになる。やがて、とても高い、笛を吹いているような、細い声が彼女から聞こえてきた。はじめは聞こえるかどうかというかすかな音。やがてゆっくりとうねるように大きくなっていく。人の声とは思えないような、高く、震えた声が、夕暮れの、湖を望む田んぼに、徐々に響いていく。それに答えるかのように、どこか遠くで、鳥の鳴き声、カモの鳴き声。湖では、ブラックバスを釣る釣り人の船が浮かぶ、いつもの夕暮れの光景なのに、このYさんの田んぼの辺りだけ、いつもとは全く違う、異界が現れようとしていた。
しばらくは静かに山形さんの声に聞き入っていたが、ふとなにかただならない気配を感じ振り向くと、後方から、田んぼの横を流れる用水路の中を、杉原さんが、ゆっくり、前屈みになり、近づいてきていた。辺りに急に、黒々とした影のような、ケモノじみた気配が漂う。用水路をつたってたどり着いた杉原さんは、用水路の中に横たわり、完全に身を浸す。それから急に、激しい動きで水を何度か叩き、上衣とズボンを脱ぎ捨て、短パン一枚になり、田んぼの一番ぬかるんでいる場所に入り、そこに身を横たえる。そして爬虫類が泥の中を動くような動作で、手も、足も、体も、顔も、全身泥まみれにしていく。それから立ち上がり、舞を舞い始めた。身体が動くに任せた、漂うような、激しく求めるような動き。
山形さんが、背負っていたリュックサックを下ろし、中から和紙に墨で書かれた詩を取り出す。皆に背を向け、湖の方を向き、和紙を両手で持つ。そして、あのちいさな体のどこにこれほどのエネルギーがあるのか、命がそのまま声になったような、とても激しい、叫ぶような音量で、第一声が彼女の口から発せられ、詩の朗読が始まった。言葉の断片が、声になり、空気を震わし、辺りに満ちていく。刈り取られ、天日干しにされている稲穂に、その稲穂を育んだ土に、目の前の湖に、響いていく。山形さんは詩を手にし、田んぼを歩き回り、言葉にならない言葉を、ありったけの声にしていく。ときおり自身の声に体勢を崩し、田んぼに倒れる。また立ち上がり、和紙を握りしめ、声を発する。「シ」という音が、絞り出されるように口から出るのを聞いた。ときおり挟まれるあの、高音の歌声を聞いていた。
杉原さんは、泥から生まれたケモノのように、泥まみれのまま田んぼのあちこちを徘徊し、踊りを続けていた。近くに来たときに、彼の口からもなにか、うめき声のようなものが漏れているのを耳にする。それから急に身をひるがえし、全速力で湖の方へ走り出した。あ、飛び込むと思うのと、飛び込む音が聞こえるのが同時だった。やがて、また戻ってきて、来たときと同じように、ゆっくり、ふらふらと、背をかがめ、用水路を伝い、記念館の方へと行ってしまった。
もう陽は沈み、背後から満月が出ていた。
山形さんも詩を読み終え、皆の前に戻ってきて、歌うように、終わったことを告げた。大きな拍手が起こる。それからぞろぞろと農道を歩き、みなで記念館へ帰る。
記念館では食事の用意がされていた。しばらくしたら杉原さんも戻ってきた。みなで乾杯をし、それから夜がふけるまで、食事をし、ギターを弾ける人がギターを弾き、ピアノを弾ける人がピアノを弾き、歌や、即興演奏の宴会のようなものが続いた。とても怖いものを見たあとだからか、お腹が空いていて、手製の餃子や、バーベキューや、キノコ鍋や、Yさんの新米のキノコご飯や、玄米、煮物、サラダ、などをお腹いっぱいいただいた。
*
翌朝、またみなでキノコ採りをする。
昼食はキノコほうとう鍋。やがて、ひとりまたひとりと東京に帰っていく。
僕も木崎湖を後にする。信濃大町駅まで一時間ほどの道のりを歩き、高速バスで新宿へ戻る。バスは渋滞に巻き込まれ、二時間ほど到着が遅れた。
*
木崎湖を後にする一時間ほど前。
近くの川で魚がとれるかもしれないしれないと、杉原さんと山形さんと僕の三人で農道を歩いていたときのこと。
道の真ん中にちいさなヘビがいた。
S字型に体をくねらせ、道路を横断しているようではあったが、ぴくりとも動かない。おそるおそる近づき、覗き込む。目は開いていて、生きているように見えるが、やはりまったく動かない。舌がちょろちょろと出たり入ったりしていない。さらによく見ると、体の一部が裂けていて、肉がはみ出している。どうやら何かに轢かれ死んでしまったようだ。「どうする?このままにしておく?どこかに埋める?」と山形さん。じゃあ水葬にしようと僕。大きめの葉っぱをちぎり、それでヘビをつかみ、田んぼの横を流れる用水路に放つ。ヘビはすぐに流されていった。「あ、流れていっちゃった」と、おおあわてという感じで山形さんが手を合わせる。僕も手を合わせる。そんな様子をちょっと遠くで杉原さんが見ている。
なぜだかその様子が、三日間の長野の旅をしめくくるようで、バスの中でも、東京に戻ってきてからも、繰り返し思い出されるのだった。
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『白蛇ー神庭(カムイミンタル)』の案内
(杉原さんのブログ。展示は10月26日までだそうです。)
前回の展示について書いた文章
もっとも新しい太古の祭 杉原信幸個展『丸石座』
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2008年07月20日
垂直に大地と繋がっている 「エミリー・ウングワレー展」
複数の友人からすごくよかったと感想を聞いていて、ずっと行こうと思っていたエミリー・ウングワレー展に行ってきた。
エミリー・ウングワレーは、オーストラリア中央の砂漠地帯でアボリジニの伝統的な生活を送った女性。80近くなってから絵筆を取り、亡くなるまでの8年間で3、4千点の作品を描いたのだという。
会場に入ってすぐ、まず作品が視野に入ってきて、紹介文や挨拶文などは後回しで、一気にその作品の世界に吸い込まれていった。画面を点や線や色彩が埋め尽くしている。どれも生命のエネルギーそのものというような、抽象的なもの。何時間もかけて一つずつじっと見て、終わりまで見たらまた始めに戻り、また同じぐらいの集中でじっとみて、どれだけ見ても見終わることなんてないと途方に暮れ、ついにはもうくたくた、お腹がすいた、足が痛いと会場を後にした。
そして、家に戻り、いったいあんなに夢中になって、何を見たのか思い出そうとするのだが、ただすばらしい時間があったということだけが思い出される。それは、目覚めたときに、内容は思い出せないけれどとにかくすばらしいものだったということだけ憶えている夢を見たときのよう。
ほんとうにどれだけ見続けても、見飽きるということがなかった。こんなに長い時間ひとつの絵をじっと見ていられるということがとても不思議だった。きっとまた同じ絵を見ても、同じぐらい時間をかけてじっと見て、見終わることがないと思うのだろう。
どの作品も、圧倒されるほど美しかった。点が異様なまでの密度で画面を覆い尽くす作品も、病的なものを感じさせることはなく、底抜けに健康的だった。きっと、彼女が暮らす大地が、人が必然的に持ってしまう過剰なものを、受けとめているからだろうなと思った。
エミリーはその生涯をほとんど同じ場所で過ごしたのだという。そして彼女の作品はすべて、アルハルクラという土地を描いている。そうやってたった一つの場所に垂直に繋がることで描かれた作品が、エミリーが住んでいた環境とはかけ離れた、日本の、東京の、六本木の、美術館で展示され、その土地とまったく関係のない人々に驚きと喜びをもって迎えられているということが、彼女がいかに深く土地に根ざし、その土地の奥にある数万年という時間のスケールまでたどれる深さにまで根ざしていたことを、端的に現しているように思う。エミリーは、一つの場所に深く繋がることで、普遍的な場所にまで繋がっているのだと思った。
垂直に大地と繋がり、数万年という時間の流れに繋がっていると、これほどまでのエネルギーが、まっすぐ流れ込んでくるということ。そのことが驚きだった。
このような作品を見ると、歳をとることに対する固定観念も打ち砕かれる。高齢なのに、このようなエネルギーに満ちたものが描ける、のではない。高齢だから、このようなエネルギーに満ちている。そんな気がしてならなかった。
一般に若いほどエネルギーがあり、歳をとるほど衰えてくると思われているが、エミリーの作品を見ていると、その自由奔放さ、そのイメージの豊かさとほとばしるエネルギーにとにかく圧倒され、なにか僕は年齢に関することで、とても大きな勘違いをしている気がしてならなかった。
若い木がひょろひょろと頼りなく、ちょっとの嵐でも倒れてしまうのに対し、年を経た大木が圧倒的な存在感で聳え立つように、長い年月をかけてその根を地中深く延ばし続け、その幹を垂直に天に延ばし続けていると、歳をとればとるほど、世界に満ちているエネルギーが、その人に流れ込んでくるようになるのではないか。足腰などはたしかに歳をとると衰えてくるのかもしれないけれど、内面的にはむしろ、樹のあり方のほうがあてはまるのではないか、と思った。
一つの場所から垂直に大地に繋がるという方向。そのようなエミリーのありかたは、憧れ願いながらもかなわない世界だ。水平方向に移動を繰り返し、止み難い流離感を抱き、大地から切り離され、自分の身体がまるで独房のようになっていると感じることのある身にとって、エミリーのその土地との繋がり方は、一つの理想として僕の目に映る。
でも、ばらばらな個人になって都会に住んでいても、エミリーの絵に見入っている間だけは、自我という独房がなくなり、エミリーの世界と溶け合い、数万年という時間の流れの一部になることができていた。
ほんとうは、いま生きているどの一人にも、数千、数万年(あるいはもっと彼方から)の時間が流れ込んでいて、その流れのいちばん先にその人は存在している。「歴史」は一人一人の「身体」に流れ込んでいる。でも、かなしいことに、そのことを感じられる機会はめったにない。彼方からの声に耳をすまそうとしても、周囲は雑音に満ちており、よほど意識的にならない限りかき消されてしまう。
高いビルをつくったり、騒々しい広告をつくったり、憎しみあい、殺しあったり、おぞましい欲望のまま行動したり、人間の行為に下らないことは数限りなく、自分もまたその渦に飲み込まれていて、自分が人間であるということに、なにか汚れた、呪われた思いを抱くことさえあるけれど、このようなすばらしい作品に接すると、これが同じ人間の行為なのだということに、救われる思いがする。人は(あるいは人の中にある自然は)、ときどき美しいとしか言いようのないものを生み出す。そういうものに出会うと、ほんとうに嬉しくなる。そのよろこびは、自分もまた、壮大ないのちの連なりの一部であるということを感じられたよろこびなのだと思う。切り離されているけれど、完全には切り離されていないということを感じられたよろこびなのだと思う。
もともとアボリジニの人々は絵を「作品」として「残す」などという文化とは無縁で、だからエミリーにふんだんにキャンバスと絵の具を与え、その世界を「作品」にして「残す」ということ自体、そしてそれがこのような美術館に展示されるということ自体が、とてもおおきな矛盾をはらんでいることはやはり感じないわけにはいかない。「残す」ということ、「所有する」ということ。そういうことを全然しなかった人々だから、あのような絵が描けたのだろうなと思うと、無邪気にすばらしかったとよろこんでもいられない気もしてくるが、でも、やはり、すばらしかった。このようなすばらしいものが生まれてくる世界観、考え方を、もっと丁寧にたどりたいと思った。きっとそのような世界観をたどっていった先に、新しい風景が開けてくると思うから。
・展覧会のHP
(会期は7月28日まで。もうすぐ終わってしまいます。)
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2008年05月15日
もっとも新しい太古の祭 杉原信幸個展『丸石座』
杉原さんとは寺町くんという共通の友人を介して出会った。彼とは何かと話が合い、何度か会っていろいろと話したのだが、その彼が今度個展をやるとのことなので、ずっと楽しみにしていた。
4月の上旬に案内の葉書が届く。
『丸石座』石と苔の地下石庭
と書かれていた。そして5月6日に詩人の吉増剛造さんと山形淑華さんとでパフォーマンスをやるということが書かれていた。
彼のパフォーマンスはとにかくすごいということを、寺町くんから聞いていた。茂木健一郎さんの本やブログにも彼のパフォーマンスのことは書かれており、それを読むと、とにかくすごい、ということは分かる。
彼のホームページを見てみると、個展の案内とともに、こんな詩がのっていた。
潮にゆられた丸石には、タマが宿っている
丸石の敷きつめられた座(くら)に
縄文石のストーンサークルの
大地の草葉の境界のあざやかさ
そのヴィジョンが浮かびあがる
地の反転、緑柱のそそり立つ座に
太古の祭がよみがえる
6日は絶対に行こうと思ったが、その前に、静かな状態も見てみたいなと思い、まずは3日に見に行く。
恵比寿駅から8分ほど歩いた、おしゃれなビルの裏手の、勝手口のようなところが会場の入り口だった。知らなければ、まず見落とすような場所だ。
入り口は普通のマンションのように鍵がかかっていた。地下の展示室にお越しの方は102を押して下さいとあったので、インターホンで102を押すと、しばらくして杉原さんの「どうぞ」という声が聞こえて鍵が開いた。
せまい螺旋階段を降りると薄暗い受付に杉原さんが座っていた。杉原さん以外にお客さんはいない。挨拶をしてから狭い廊下を歩き、会場に入る。
会場はがらんとした無機質な白い壁の、三十畳ほどの空間だった。
入り口には人の頭ほどの大きさの丸石が二つ、境界を示すように置かれていた。ここから先は異界なのだという緊張感を感じながら、その丸石の間を通る。そのとき空気が急に、なにか静謐なものに変わる。
会場の中程に丸石が敷き詰められ、苔の柱が環状に建っている。作品は蛍光灯に照らされている。それはなにか妙に好奇心を刺激される形をしていた。近づいたり、遠ざかったりし、様々な角度から、これはおかしなものだ、なにかとても変なものだと思いながら見て回る。
よく見ると、丸石にも二種類あることが分かる。茶色がかったものと、瑞々しいまでに滑らかなもの。その二種類の丸石が、螺旋でもない、渦でもない、なにかよく分からないからみ方をして置かれている。そしてその丸石の中に、胸ぐらいまでの高さから膝ぐらいまでの高さの十本の苔の柱が環状に立ち、一本だけその輪の外に立っている。さらにもう一本、会場の奥にある窓の外、地上との通気口あるいは明かり取りのような場所に立っている。苔の柱はうっすらと湿っていて、柱の基部の石も濡れている。おそらくは杉原さんが毎日、苔に水をあげて育てているのだろう。
しばらく見てから会場をでて、杉原さんに聞くと、茶色い石は川原から、そうでないものは海岸から拾ったのだという。苔の柱の中は流木で、そこに苔を貼付けたのだという。
6日に、もう一度会場へ行った。
案内の葉書には、「日暮れより 丸石座開演」とある。
恵比寿駅には五時頃着いたのだが、まだ十分明るく、これは「日暮れ」ではないなと思い、しばらくは写真美術館などへ行き時間を過ごす。それから少し西日になってきたかなというころ(六時すこし前ぐらいだっただろうか)、会場へ行く。
前のようにインターホンを押し、今度は杉原さんではない女性の声で「どうぞ」と声がして、中に入る。受付を済ませ、会場に入ろうとすると、杉原さんが会場から出てきた。なにか、本番を前にした、ただならない雰囲気に包まれていたので、少し会釈をしただけで中に入る。
会場の中は、前回とは対照的に、入り口付近まで立ち見になるほど混雑している。中を覗くと、どうやらもう始まっているようだった。
会場の中ほど、作品の前に座り、二人が何かをしている。でも何をしているのかよく分からない。おそらく詩人の吉増剛造さんと、山形淑華さんなのだろう。観客はめいめい壁際に座ったり立ったりし、二人を見つめている。静かで、張りつめた緊張感がある。
入り口で僕は、これはなにかすごい場所に迷い込んだなという気持ちになる。でも、ここまで来てしまったのだから引き返すわけにはいかない。奥の方の壁際に座れそうな場所があったので、入り口の混雑をぬけて中に入り、壁際にしゃがんだ。
会場には二三十人ぐらいいただろうか。若い人がおおい。みな静かに二人のパフォーマンスを見つめている。
山形さんは、服をすっぽり頭にかぶり、うずくまり、どこから出ているのか分からない高い声を出している。それほど大きな声ではないが、巫女のような、呪術的な声。吉増さんは正座し、何か、字を書いたり、口に何か鈴のような楽器をくわえ、それを鳴らしている。しばらくは二人の静かなパフォーマンスが続いていた。
やがて会場の明かりが消えた。
ややあって、波打ち際の映像が作品の上に投影され、波の音が会場に流れた。
そして次の瞬間に、何の前触れもなく、上半身裸の杉原さんが、苔の柱でできた環の中、作品の中心に飛び込んだ。丸石が大きな音をたてて飛び散る。地下の会場だからか、異様に大きな音が響く。
それから立ち上がり、また丸石の上に倒れ込む。丸石に足をとられ、激しく転倒する。また立ち上がり、また転倒し、壁に激突する。それから波の音に揺られるように、杉原さんは作品の上をクラゲのように漂う。ときおりまた丸石を踏み、激しく転倒する。その度ごとに、丸石がぶつかりあう音がする。そうやってしばらく作品の周りを漂ってから、今度は奥の窓の外へ出て、そこに置かれている苔の柱を抱え、戻ってきた。そしてその柱を立て、柱にしがみつき、しばらく動かなくなった。
それから今度は、苔柱の環の中心に座り、一つの丸石を手にし、渾身の力で別の丸石に打ち付けだした。丸石と丸石がぶつかる大きな音が響く。何度も何度も、石器を作っているかのような動作で、丸石を打ち付ける。その度ごとに、石がぶつかる、くぐもったような、鈍く、大きな音が、地下の会場に反響する。
やがて吉増さんが朱色の文字がかかれた和紙を掲げ、それを上から下へと、ゆっくり破いていった。そして破いた紙を、プロジョクターから投影されている波打ち際の光にかざす。山形さんはずっと高い声を出していたが、やがてうずくまり、動かなくなってしまった。しばらくしてから、杉原さんは、ふらふらと会場を出ていった。
しばらく静まり返っていたが、やがて吉増さんが、これで終わったということを告げた。プロジェクターが消され、明かりがつき、会場の張りつめていたものが解け、ほっとした空気に包まれる。どこからともなく拍手が起こり、長い間大きな拍手が続いていた。やがて杉原さんが拍手に迎えられ戻ってきた。
地下の会場を出ると、外は暗くなっていた。
しかし洞窟から明るい場所に出たような、とても清々しい気持ちになっていた。
*
この文章は、パフォーマンスがあってから十日ほど後に書いているのだが、まだあのときの光景と音が、くっきりと残っている。
どんな解釈も受け付けず、理性的に理解しようとする行為を砕かれるようなパフォーマンスだった。
杉原さんが、苔柱を抱きしばらく動かなくなったとき、僕はなにかとてもおかしくて、でも同時に、なんだかとてもかなしくも感じていた。丸石を渾身の力で叩き付けていたときは、思わず近くにある石を手にとり、僕も叩き付けたくもなっていた。
パフォーマンスが終わった後、会場では簡単な食事が出された。
先ほどまで、丸裸の魂になっていた杉原さんだが、異界から戻ってきたようで、僕が知っている静かに話す杉原さんになっていた。
彼にどこまで内容を決めていたのかと聞くと、全く決めていなかったと言った。吉増さんや山形さんとも、一切何も打ち合わせていなかったそうだ。「電気を消して、プロジェクターで映像を映してから始めるというところまでは決めていたけど、あとは、何をするのか、自分でも全く分からなかった。」と言っていた。
ある女の人が、この作品が都会の真ん中の、このようなギャラリーに展示されていることがとても不思議、と杉原さんに言っていた。
それを受けて杉原さんは、本当は土の上でやりたい、空の下で、自然光の中でやりたい、と言った。
ぼくも、この作品が土の上に置かれていることを想像し、ああそれは本当にいいなと思ったが、燦々とした太陽の光の下では、ちょっと明るすぎるなとも思った。作品も、あのパフォーマンスも、月の光、あるいは焚き火の明かりで見てみたい。あるいは洞窟のような場所もいいなと思った。
でも、ギャラリーが地下にあるというのはとてもよかった。恵比寿のような都会の真ん中でも、その地下に、あのようなわけの分からないものがあるということがよかった。この場所でやることになったのは、前回のパフォーマンスを見たギャラリーのオーナーから誘われたからということで、地下にあるのは偶然なのだろうが、そういう偶然を引き寄せる力が杉原さんにはあるのだろう。
このようなパフォーマンスは、祭りのようなものだと杉原さんは言っていた。制度化される前の、原初的な祭り。とても古く、そして最も新しい形の祭り。ひととき理性の蓋がとれ、あらゆる言葉を飲み込む渦のような場を作り、そして見るものすべてを、わけの分からない場所まで連れ去るパフォーマンスだった。そして終わると、蓋はきっちりと閉じられ、また元の日常の中に戻る。
片付けを手伝った寺町くんは、丸石は土嚢袋何十袋分にもなっていたと言っていた。あれを一人で川原や海岸から拾い、一人で運び(何回も、背負ったりして運んだのだという)、ひとつひとつ丁寧に並べていった、その労力はちょっと信じられないと言っていた。
静かな地下の暗い場所で、ひとりでこつこつと石を並べ、祭りの準備をしている光景を想像すると、大変であることは確かだけど、なんだかとても楽しそうだ。きっと一つ一つ、丁寧に置いていったのだろう。そのように、都市の地下で、裏庭のような場所で、黙々と庭を造り、それを手入れする庭師のような仕事。そうやって現れた庭は、彼の内界であると同時に、この都市に住む人たちの、普段は決して見ることのできない内界でもある。
あの苔柱と丸石で作られた形や、石が打ち付けられた音や、杉原さんの動きなど、あのときあの場をたった一度だけ満たしたものが、記憶の中で、波に揺られるようにまだ漂っている。
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『丸石座』の写真(杉原さんのブログへ)
杉原さんのかつての「行為」については、茂木健一郎さんのブログで読むことができます。
切り株と頭
夢燃やしの競争
投稿者 tsuyoshi : 05:33 | トラックバック
2007年05月22日
水越武写真展 大地への想い
日曜日に恵比寿ガーデンプレイスにある東京都写真美術館へ行き、「水越武写真展 大地への想い」を見てきた。
小説家の小川洋子さんが「いい小説を読んでいると、自分も、今すぐにでも机に向かって小説を書きたくなる。そういう気持ちにさせてくれる小説が私にとっていい小説だ。」というようなことをエッセイに書いていたが、それと全く同じ想いを、水越さんの写真を見ながら思っていた。いますぐ家に帰り、カメラをザックに入れて、また水源域の撮影に行きたくて、ため息をつきながら、一点一点に見入った。こんな突き動かされるような強い想いを抱かされた写真展は初めてだった。本当にすばらしいものに接すると、魂を鼓舞されるような喜びがあり、それが何か訳の分からない力となり、地底から吹き上がる風のように、ふつふつと、ああ僕ももっといいものが撮りたい、もっと深く知りたい、そしてもっともっと深く考えたいと、一歩も二歩も突き動かされ、その写真に、高峰を仰ぎ見るような憧れを抱いた。
その日は水越さん本人のギャラリートークがあり、会場を廻りながら写真の解説を聞いたのだが、どの写真に対しても水越さんは口ぐせのように「どうしても○○が撮りたかったんです」と、言っていた。例えばギアナ高地のエンゼルフォールズの写真を前に「どうしても熱帯雨林に滝が吸い込まれていく様子が撮りたかった」と言い、大雪山の稜線がシルエットになっている写真をまえに「どうしても本州にはないなだらかな稜線を撮りたかった」と言っていた。だからこう撮り、だから不要なものを排除したと言っていた。
どの写真も、その写真はそう撮られなければならないという確固たる内的必然性があり、「どうしても」という言葉の背後には、生態系に対する透徹した哲学や生命観が流れていた。ただきれいなだけの風景ではない、「どうしても」という必然性に裏打ちされた写真には、張りつめた緊張感が漂い、テーマが要求するものから一歩も引かないという覚悟がみなぎっており、美しかった。
水越さんの40年間の写真家としての歩みは、二十代後半から取り組んだ穂高の山岳写真から始まっている。研ぎ澄まされたナイフのようなストイックな穂高の岩と雪のモノクロームの写真からはじまり、日本の原生林やヒマラヤの高峰、熱帯雨林など世界中に広がっている。
初期の穂高に取り組んだ日々について、水越さんはこう回想している。
テントや雪洞で暮らし、いつ果てるとも知れぬ猛吹雪の中で、ゴーゴーと渡って行く風を一人で聞きながら、自分の理想とする写真が1枚できたら命と替えてもよい、などと真剣に考えていた。当時は1カ月も2カ月も下山せず、死に物狂いで自然と向き合っていた。思い出すだけで今でも胸が熱くなる。山と写真のことだけを考えていた。(展覧会のカタログより)
その二十代後半から10年間取り組んだ穂高の写真が原点にあるからだろうか、テーマが地球全体にまで広がった以後の作品にも、カラーなのにモノクロームのような写真が多く、ぎりぎりまで削ぎ落とし、単純化し、テーマを明確に浮き彫りにしている写真が印象深かった。その孤独でストイックな色調がこの上なく美しく感じられた。特に、黒と青の深さが美しかった。
好奇心のおもむくまま、少しでも高く、遠くへとひたすら自分の足で歩き、私は夢や憧れの軌跡となる写真を持ち帰った。 遠くには地平線があり、高くには山があった。どこを歩いていても頭の隅には大地への想いが常にあった。地球はなんと美しく、無限の表情を持ち、多様性に富んだ不思議な生き物を抱え込んでいることか。(展覧会のカタログより)
「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という小林秀雄の言葉を思い出す。
水越さんは「「地球」を視野に入れた自然観、新しい地球観を持つべき時代がやって来ている」と書いているが、「新しい地球観」はきっと、僕たちの一人一人が何を心から美しいと思うのか、どんなものに心を奪われるのかによって形作られていくのだと思う。僕は水越さんの写真に魅了された。水越さんが向かっている方へ僕も体を立てたいと思った。魅了されるとはそういうことなのだと思う。
投稿者 tsuyoshi : 07:46 | トラックバック
2007年04月20日
展覧会「ashes and snow」
友人を誘い、お台場にあるノマディック美術館へ行き、グレゴリー・コルベールの展覧会「ashes and snow」を見てきた。
ノマディック美術館は、この展覧会のために建てられた移動美術館らしく、コンテナを積み上げた不思議な空間だった。
グレゴリー・コルベールの写真や映像は、人間と動物がとても近い距離にいて、踊ったり、遊んだり、じっと同じ方向を見たりしているもので、まずはその人間と動物の近さに驚いた。でも写真も映像もすべて、CGやレタッチは施されていないのだという。
名付けようのない印象を喚起されるものばかりだった。
人間が動物の皮をかぶり、動物が皮を脱いで人間になっているような、動物と人間の境界があいまいになるような、神話的で不思議な写真と映像だった。
そういう詩的な作品がコンテナを積み上げた異空間の中にあり、多くの人がそれにぼーっと見入っている姿もかなり不思議な光景だった。
見終わってからも、女性が象と一緒に踊っている映像がずっと頭から離れなかった。一切の抑圧を解除したような、命そのものが発露しているような、美しく力強い映像だった。そして「魔法のことば」という詩の世界と似ているなと思った。
ずっと ずっと 大昔
人と動物がともにこの世に住んでいたとき
なりたいと思えば 人が動物になれたし
動物が人になれた
だから時には人だったり 時には動物だったり
互いに区別はなかったのだ
そしてみんながおなじことばをしゃべっていた
(金関寿夫『アメリカ・インディアンの口承詩』より)
グレゴリー・コルベールの作品は、この詩の世界にあるような、人間と動物のあいだに対称性があった大昔の写真や映像のようだった。彼は大昔の世界を現代に再構築しようとしているのだろうか。
見終わってから友人とお茶を飲んだのだが、それがお台場のいかにも人工的な場所だったので、落差に頭がくらくらした。お茶を飲みながらなにか感想を述べようとするのだが、さっき見た作品に言葉が吸い込まれていくようで、ふたりともちょっと感想を言ってはうーむと口をつぐみ、またちょっと感想を言ってはうーむと黙ってを繰り返してた。どうにもこうにも言葉にならないのだ。
展覧会のタイトル「ashes and snow」は訳すと「灰と雪」とでもなるのだろうが、かなり抽象的な意味合いを持たせているのだと思う。なぜ「灰と雪」なのか、見終わってからもときおりふと考え込んでしまう。
両者とも白い。「火と水」に関係している。そこから想像をふくらませて、「太陽と海」や「光と結晶」などを思い、命あるものが光を発しながら燃え、最後には灰になることを思い、水が蒸発し結晶することを思い、海から発生した生命進化のことを思い、なんだかわけが分からなくなる。きっとこうやって自由にあれこれ連想させるのを促すタイトルなのだろう。
友人はしきりに「象ってふしぎ」と言っていた。その鼻の長いこと、その足のつめのおっきいこと。改めてまじまじと象の写真を見ると、僕も本当になんでこんなふしぎな生き物がいるのかと驚いてしまう。かつて知っていたけれど思い出せないもの、そこにあるのに見過ごしているものにあらためて気づかされるような、不思議な懐かしさすら感じさせる展覧会だった。
ps.
展覧会は数十枚の大型写真と、二つの短篇映像、一つの長編映像です。長編映像は一時間ぐらいありました。僕が行った日は寒く、館内も外気温と同じぐらいなので、じっと映画を見てたら冷えました。寒い日は一枚羽織るものがあるといいと思いました。
投稿者 tsuyoshi : 20:46 | トラックバック
2006年11月09日
「大竹伸朗 全景」展
東京都現代美術館でやっている「大竹伸朗 全景」展へ行ってきた。
もうほんとうにくたくたに疲れ果てた。
作品点数の量と質が凄まじく、くらくらした。
東京都現代美術館の企画展示室の全フロアを使い、2000点あまりが展示されているのだが、たった一人の人間がこれだけのことをやったということが信じられなかった。
少年時代からの作品をほぼ作成順に展示しているのだが、どの部屋もひとつの個展になるような完成度の高さで、しかも、どんどん変わり続けている。
彼の作品は、どの時代のものも、どの一点も一切手抜きというものがないのだが、そのように部分で見るだけでは伝わりきれないものが、2000点全部を通しで見ることで立ち現れてきて、その表現に対する覇気のような、鬼気迫るリズムが、正直苦しかった。
それから、家に帰り茂木健一郎さんのクオリア日記にある大竹さんとの対談の音声ファイルを二つ聞いた。(その1、その2)
大竹さんはある時期から東京をはなれ、愛媛県の宇和島の山奥に住んで絵を描き続けている。現代アートシーンから取り残され、評価されなくてもずっととにかく描き続けている。その描きつづけるというパッションの溢れるような過剰さが、言葉になりきれないもどかしい感じが、語り口の節々に見えて、ああこの人は本当のことをいう人だなと思った。
過剰であること、理不尽さ、不条理、いたたまれなさ、得体の知れなさ、続けるということ、孤独、無意識に耳を澄ますということ、もう手遅れだということ、やるしかないということ。そういうひとつひとつの言葉が、いま一番聞きたい言葉だった。
絵を描き続けなければ本当に生きていけない人なんだと思った。経済的にも、画家としても描かなければ生きていけないということを本当に受け入れているから、生きることと描くことがぴったりくっついていた。そして、正直に生きる(=真摯に表現を求める)ということのぞっとするような矛盾に真正面から向き合っているから、描いたものが作品になっているのだと思った。
矛盾から目を逸らすための言い訳は、毎日いくらでもあるのだと思う。およそあらゆることが言い訳の材料になる。
でも、ぎりぎりのところでどうにか踏みとどまり、とてつもない負荷に身を晒し続けているから、その生きるリズムのようなものが作品や言葉に乗り移るのだろう。なにか孤独な修行僧のような生き方だ。「続ける」ということの凄みを見せつけられ、背筋を正される思いがした。
