3−6ナイフ強盗 |
イランのエスファハーンを出発して三日目の夕方。 人気のない岩山の景色が続いていた。日が傾き出し、そろそろどこに野宿するか考えなければならない頃だった。もう百二十キロも走っていた。 緩い上り坂に差し掛かった。ふと前方を見ると、道端に髭の濃い大柄な男が立っていた。いやだな、という思いが一瞬よぎる。こんな場所に男が立っている理由 はない。しかし、僕はそのまま前進した。引き返すのはあまりにも面倒だったのだ。もしかしたらヒッチをしているのかもしれない。ほんの少しだけ、来るなら 来いという思いがあった。 男に近づいていく。男は無関心に突っ立っている。僕は念のためと思い、道路の真ん中まではみ出して男を迂回した。 横を通過する瞬間、突如男は突進してきた。やはりと思ったのと体当たりされるのが同時だった。体当たりされ、突き飛ばされ、僕は激しく転倒した。そして 強盗だと思った直後に、僕は激昂し、理性を失い、叫びながら男に殴り掛かっていた。 次の瞬間、男のポケットからナイフが出てきた。ナイフが見えた瞬間に僕は飛び退いた。数メートル後退し、にらみ合うように数秒沈黙した。さっきの激昂が消 え去り、僕は冷静になっていた。 それから男はナイフで威嚇しながら、転倒した自転車にくくりつけてある荷物を奪おうとした。僕は声を限りに叫んだ。誰か来ないか、車が通りかからないかと 前後を見回したがまったく人気がない。男はしっかりパッキングされている荷物をどうやって自転車から取り外したらいいのか分からなく、焦り、まごついてい る。それから荷物を取り外さず、自転車ごとすべて奪おうと倒れている自転車を引きずり出した。僕は自転車の反対側を掴み、男と引っ張り合う格好になった。 男はまたナイフをかざし突進してくる。僕はまた自転車から離れ、数メートル逃げる。 今度はフロントバッグに狙いを定め、男は自転車にくくりつけてあるバッグの取っ手部分をナイフで切り裂こうとした。そのバッグの中に、今まで出会った旅人 たちに書いてもらった住所録があることに気がつき、指をくわえて見ていることに耐えられず、また僕は男に向かっていった。 男は両手を使ってバッグを盗ろうとしていて隙だらけだった。僕は自転車の後方にくくりつけてあるワイヤーキーを取り出し、頭めがけて振り下ろした。手に鈍 い感触があった。男は頭を押えながらも、ナイフでバッグの取っ手を切り裂いた。そしてバッグを掴んで引っ張った。しかしバッグはもう一カ所ゴムでくくりつ けてあったので取れない。僕はワイヤーキーでなおも数回殴りつけた。男は手で防ぎながらも初めの一撃が効いたのか、諦めて何も盗らずに岩山のほうに逃げて いった。 男が逃げていくのを見て、数十メートル離れた路肩に停まっていたバイクが急発進した。おそらくバッグを盗んだあと男はバイクまで走り、後部座席に乗って逃 げる段取りだったのだろう。待ち伏せの、計画的な犯行だったようだ。僕は興奮しながらも、奇妙な冷静さがあった。また強盗かよと思いながら辺りを観察して いた。 恐怖はいつでも後から来る。もう日没までいくばくもなかった。強盗がまだその辺にいると思うととても野宿などできない。しかし次の町、ペルセポリスまでは あと三十五キロもある。僕は猛然と自転車を漕ぎ始めた。気がついたら手が震えていた。喉が痛くなっていた。まだ安全な場所にはいない。あのバイクで逃げて いった男が追いかけてくるかもしれない。そう思うと、疲れ果てていたはずなのに自転車が漕げた。必死に自転車を漕いでいないと恐怖に潰されてしまいそう だった。 よりによってこんな時に、いきなり後輪の空気が音を立てて抜けた。パンクだ。舌打ちしてからすぐに気を取り直してチューブを交換する。そしてまた漕ぎ出 す。日没はとうに過ぎ、暗闇が迫っていた。 追い風になっていた。一時間、凄まじい形相で漕いでいたのだと思う。どこにこれほどの力が残っていたのか、体中から力が湧き上がり、まったく疲れない。 やがてペルセポリスに着いた。もう真っ暗になっていた。しかし、ホテルがない。何処をどう探しても見つからない。困り果て、手当たり次第にホテルの場所 を聞き回っていたら、ある家に泊めてもらえることになった。助かった…。 それからの日々で、僕はどれだけその強盗を憎んだか分からない。あの髭の男を想像の中で何度殺したか分からない。憎しみは湧き出てくる一方だった。あらゆ る残虐な方法で男を殺した。ワイヤーキーで頭を割り、脳みそをぶちまけた。蹴り飛ばし、うめく無抵抗な男の腹部を何度も何度も蹴り上げた。男のナイフを奪 い、体に突き立てた。きりがなかった。思い返すたびに殺していた。 強盗に襲われたときに発した自分の叫び声が耳に残って離れなかった。不気味な、生々しい、文字にならない、我を失った声だった。あんなおぞましい声を自 分が発したことが信じられなかった。べっとりと背中にへばりつくような、忘れたくても忘れられない声だった。 そしてケープタウンのときと同じく、また、道端にいる人がすべて強盗に思えてきた。道端に立っている人を発見したら、まず強盗だと疑い、ぎりぎりまで近 寄ってから急に反対車線の路肩まで大きく迂回した。遠くで反対車線に移ると、僕が来るまでに反対車線へ移動できてしまうと思ったのだ。 ペルセポリスにある遺跡を見ても何も感じられなかった。これからどうやって旅を続けるのかばかり考えていた。今更ながら自転車があまりにも無防備に思えて どうしようもない。丸腰で弾丸が行き交う戦場に立たされているような気がしてくる。このような精神状態に一瞬にして突き落とした男をまた憎み、また殺し た。何度でも殺した。 走りながら、何度も強盗に遭ったときの僕の行動を思い返していた。そしてつくづく運が良かったと思った。何も盗られず、転倒したときにできた擦り傷だけで 済んだのだ。あの状況で何も盗られなかったのは奇跡だと言ってもいい。結果から言えば僕の採った行動はまったく間違っていない。 しかし、どうしても一点だけ目を逸らせられない場面があった。強盗に体当たりをされ転倒した瞬間に激昂し、反射的に立ち向かっていった場面だ。その場面を 思い返すたびに、次第に僕は戦慄を覚えるようになった。 ケープタウンで強盗に遭った後に、もしまた強盗に遭ったときにどう対応するか決めていた。それは、銃やナイフを持っていた場合絶対に抵抗しないというもの だった。強盗が欲しいのは僕の命ではなくて、自転車や荷物なのだ。すべて渡せば命だけは見逃してくれるだろうという計算だった。とっさに抵抗しないよう繰 り返しイメージトレーニングをしていたつもりだった。 イランに入り、テヘランまでは楽しく旅をしていた。しかしテヘラン辺りから頭に来る出来事が連続してしまい、いらいらしながら旅をするようになっていた。 フラストレーションが溜まりに溜り、ぎりぎりで理性を保っているような状態だった。 そんな心境のときに強盗に遭ったのだ。だから、突き飛ばされた瞬間僕は激しく狂暴になっていた。今こいつを殴っても誰にも文句を言われないという思いで、 理性の蓋が取れ、フラストレーションが爆発していた。真っ白な頭で強盗に殴り掛かろうとしていた。強盗に遭ったときの対応などまったく頭になかった。やっ とまともな頭になったのはナイフを見た瞬間だった。ナイフを見て我に返り飛び退いたのだ。 こだわってしまうのは、やはり突き飛ばされた直後の自身の凶暴さだ。男を殴ることしか頭になかったときのあの真っ白な光景だ。あれは、何だったのだろう。 ――あれは、殺意ではなかったか? 繰り返し思い返しているうちに、ふとそんな言葉が浮かんできた。すぐに否定したくなったが、あの真っ白な理性の停止、あの爆発するような凶暴さ、あの制御 しきれない怒り、殺意とはあのようなものかもしれない。あの瞬間にもし僕の手に銃があったなら、引き金を引いていたかもしれない。 旅は自分の知らなかった一面を見せてくれることが多い。そしてそれは往々にして今まで知らなかった良い一面だ。しかし今回は、知らなかった自分の、知りた くなかった一面だった。目を逸らしたいが、それはやはりあったことだった。もしかしたら条件次第で自分はどこまでも暴力的になれる生き物なのかもしれな い。どす黒いわだかまりが残ってしまう。 ペルセポリスから六十キロ先のシラーズまで怯えながら走った。シラーズで以前出会った自転車旅行者と再会した。僕はもうイランを一人で走りたくなかったの で、彼に一緒に走ることを持ちかけた。彼は快く申し出を受けてくれ、僕たちは酷暑のイランを二人で走り、パキスタンのラワールピンディーまで一緒に旅し た。 |
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