4−5峠を越える |
| 前日の昼過ぎから吹き出した風が一晩中吹き荒れ、朝になっても止む気配がない。凄まじい向かい風のなか出発する。気温は零度前後だが、体感温度は非常に 低い。 今日、これから連続する二つの峠、ラルン・ラとヤルレ・シュンラがチベット最後の峠だ。これを越えればあとはひたすらネパールへと下るだけだ。 十三キロ上り坂が続き、ラルン・ラに到着した。少し拍子抜けした。意外にあっさりと着いてしまったからだ。前方に道が一度下りまたなだらかな丘へと続い ているのが見える。なんだ、こんなもんか、ふとそう思ってしまった。苦しみ抜いてきたチベットの峠のフィナーレにしては物足りないなという想いがかすめ た。 しっかり聞かれていたのだろうか。五キロ下り、最後の峠への上り坂が始まると、風がいよいよ強まった。すぐに自転車に乗っていられなくなり、押して歩 く。だだっ広い丘のような坂を、烈風に倒されそうになりながら歩く。 これほどまでに寒く厳しいと感じたのは本当に久しぶりだった。風さえなかったら簡単に越えられただろう。しかし風は斜め前方から叩き付けるように吹いて いる。倒されぬよう一歩、また一歩と歩く。 烈風に体温が奪われ、二重に手袋をしているにもかかわらず手が痺れ、凄まじい痛みを感じる。雪はないが、厳冬期の山の稜線上を歩いているかのようだ。油 断していると突風に後ずさりさせられてしまう。 最後の峠、これでこそだ。今まで越えた無数の峠を思い出し、がんばれ、がんばれと声を出し自分を奮い立たせていた。 五千メートルを越える峠だけで十以上越えていただろう。四千メートル台ならもう数え切れない。毎日大小何がしかの峠を越えていた。数キロから数十キロ上 り坂が続く峠を越えていた。感情を押し殺すことだけを考え、無数の峠に付き合っていた。 「もういい、もう十分だ」と道端に自転車を投げ出した峠があった。なにもかもが憎らしくなっていた。しかしいくら休んでも事態は何も変わらず、どれだけ 悪態をついても一ミリも前へは進めない。自転車は、自力でしか前進しない。そのことを嫌というほど痛感させられ、また諦めて自転車にまたがった。 そして今、最後の峠を越えている。この峠を越え、一日下り続ければチベットが終わる。長かったチベットが終わり、ネパールへ入国する。 何度もあれが峠だとだまされた。そしてとうとう、遠くに峠を示す旗が見えた。見えた瞬間、声にならない声が漏れた。チベット最後の峠、標高五千百メート ル、ヤルレ・シュンラに到着した。一気に視界がひらけ、ヒマラヤ山脈の高峰が連なっているのが見えた。もう日は暮れかけていた。少し下り、風を避けられる 場所を見つけテントを張る。相変わらず満天の星空だ。夜、何度か寒さに目を覚ます。 夜が明けると下り坂が始まった。待ちに待ったヒマラヤダウンヒルだ。部分的に上り坂もあったが、ほぼ一日中、九十五キロもの下り坂が続き、とうとう国境 の町ダムに辿り着いた。 標高差にして二千六百メートルほどを一気に下っていた。朝、木が一本もない丸裸の高地にいたのに、夜は森林の中の町にいた。湿度があがり、気温があが り、空気が濃くなった。 次の日、ビザが切れるちょうどその日に国境を越える。ネパールに入国し、さらに下り続ける。空気はさらに濃くなり、チベットの抜けるような青空がなくな り、ぼんやりとした水色の空に変わった。標高八百メートルまで下っていた。バナナの木まで現れた。 下り坂がようやく終わり、また一つ峠が現れた。空気が濃く、ペダルをいくら踏み込んでも息が切れない。信じられないスピードで坂が上れてしまうのが不思 議でならない。もしチベットでこんな漕ぎ方をしたら、五十メートルで気を失うだろうに。 峠近くで一泊し、翌日カトマンドゥに辿り着いた。百三十日間に及ぶチベットの旅が終わった。 ロウソクの炎の先を見つめながら切実に願っていた日がとうとう来たのに、ラサに着いたときのような高揚感はなかった。チベットが終わってしまったことが ただ信じられなかった。カトマンドゥに辿り着くことに焦がれつつ、無限とも思える道のりを漕いできたのに、いざ辿り着くと放心するばかりだった。街の喧騒 の中で、戸惑いながら、息をひそめて、チベットでの日々をかみしめていた。しばらくしたら、そのような思いも揮発するのだろうと思いながら。 荒野の真っただ中で、誰にも知られずに、必死にバランスを保っていた日々だった。夢に何度もなつかしい人が現れ、そのたびに朝起きて夢だったのかと思い 知らされ、切れるような痛みを感じていた。失ってしまった時間とか、もう会うこともない人だとかが痛く、目覚めて、チベットの真っただ中にいることを知 り、詮ないことだと知りながら会いたいと思っていた。 途上の、どこへ続いているのか自分でも分からない道のただ中で、立ち止まって、また歩んでいた。何をしているのか、意味を直視すると歩みが止まってしま う。意味ではなく行為、そう思い続けていたからここまで来られたのか。 |
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