4−8

カルカッタの連鎖

 自転車を停めた。夕日に見とれた。

 地表付近にもやがかかっているからだろうか、空全体が朱色に染まっている。荒々しいわけではない。それほど劇的なわけでもない。

 しかし、見とれた。何一つ見逃すわけにはいかなかった。一生に一度しか見られない貴重なものだという思いがあった。これほど美しい夕日をいままで僕は見 たことがなかった。

 昨日もそんな思いで見ていた。一昨日もそうだった。ブッダガヤを出てから、僕は毎日自転車を停め、夕日に見とれていた。毎日、いままでで一番美しい夕日 だと思っていた。

 昨日は橋の上から夕日を見た。黄金色の光が川に反射し、小さな丸木舟で漁をする人々がシルエットになっていた。漁師が操っている網が夕日を反射し輝いて いた。濃い赤の夕日と、まだ青さを残している空。雲が、夕日に照らされている部分だけ真っ赤に染まり、反対側は影になっている。丸木舟が作る波紋がつぎつ ぎと広がっていく。見とれながら、これはもう完璧だと思っていた。なんだかとんでもないものを見てしまったと思っていた。

 一昨日は森の中だった。もう夕闇が迫っており、泊まる場所が見つからずに焦っているときだった。ふと振り返るとものすごい色の空があった。見てから、振 り返ってしまったことを後悔した。一刻も早く今日の寝る場所を確保しないといけないのに、急いでいるときに限って夕日はますます美しい。仕方ないと舌打ち をし、自転車を停めた。

 後方に暗い森が見渡す限り広がっている。そして光はもう消えかかっている。しかし、最後の命を燃やしきるかのように、消えゆく光の中心部分は赤かった。 今まで見たどんな赤よりも深く、濃く、美しかった。暗さを増す森が不気味で、もう本当に急がないと危ないと思うのだが、目が夕日に釘付けにされて動けな い。

 今日の夕日はカルカッタまであと三十キロの地点からだった。空気が湿気を帯びているからか、空が全体的に薄い朱色に染まっていた。丸い銅板のような夕日 が、朱色の空をゆっくりと沈んでいった。朱色の薄いグラデーションがとても愛おしく感じられた。こんなに繊細に変化する空の色をいままで僕は見たことがな かった。コントラストは強くないが、階調の変化は比類なく美しい。これこそが本当の夕日だという、静かな確信があった。道端にチャイ屋があったので自転車 を停め、チャイを飲みながら夕日に見とれた。飲み終えたら再び自転車にまたがり、カルカッタに入っていった。そして、真っ暗になってからサダルストリート に辿り着いた。


 サダルストリート近辺にはいくつもの安宿があり、世界中から旅行者が集まっている。
 僕が泊まった宿のドミトリーは広い三部屋がつながっており、そこに二段ベッドが敷き詰められ、四十人ぐらいが寝られるようになっていた。旅行のシーズン になってきたからか、常にほぼ満員で、入れ替わりも激しく、実に多くの人たちと出会うことができた。

 僕は留保なく、間断なく、出会う人たちと話していた。それは今までにない変化だった。人と出会うということがこの上なく貴重な出来事だと感じていた。出 会う人すべてと話したいと思っていた。

 縁あった人と向き合い話すこと。それが旅における核心部分の一つなのかもしれないと、僕はようやく自覚し始めていた。三年かけて旅し、幾度となく失敗 し、ようやく準備が整ったのだろう。それは、心を開いて変化に身を晒していくということでもあった。

 人にせよ、風景にせよ、出会うということは本来危険に満ちた出来事なのかもしれない。場合によっては出会うことにより、後戻りできない変化が起きてしま うのだから。でも、旅をするとは本来そういう種類の危険に満ちたものなのだろう。そこから目をつぶっていても旅は出来るが、旅の鮮やかさは失われてしま う。素晴らしいものごとの多くを取り逃がしてしまう。

 カルカッタ、サダルストリートでの日々は、旅の頂点とも言える日々になった。僕は人と出会い話すことに夢中になっていた。一つの出会いは、次の出会いへ と連鎖し広がっていった。そんな連鎖が嬉しく、またそんな連鎖は途切れることがなかった。黙々と一人で自転車を漕ぐことで耕していた場所から、出会い、話 すことにより、どんどん発芽し成長していくものがあった。そして出会いの連鎖は樹のように枝分かれしつつ伸びていき、急速に成長していった。


 出会いがあれば、別れがあるのは必然だった。
 ある日、多くの言葉を交わした人と別れた。もう二度と会えないのだろうなと思っていた。早朝に別れ、それから目的もなくカルカッタの町を歩いていると、 何かはじめて路上にいる物乞いの姿が目に入ってきた。もちろん今までも何度も物乞いを目にしてきたけれど、正直言うと多く見すぎて慣れていた。しかしその とき僕は、はじめて物乞いを見たときのような混乱を感じ、いくつもの差し出される手を前に、どう接すればいいのか分からなくなってしまった。

 そして、気がついたらアメリカンセンターの前を歩いていた。つい数週間前に爆弾テロが起こった現場だった。このテロのことはバラナシにいたときに聞いて いた。アメリカ人が数人亡くなったのだという。亡くなった人の写真と花が建物の前に飾ってあった。そしてセンターの前には歩道にはみだし鉄条網が張られ、 土嚢が積まれていた。数人の兵士が銃を水平に構え、道行く人に向けていた。

 アメリカンセンターの前を通り、ここだったのかと思い、どうしてこんなことが起こってしまうのかと思い、気がついたら込み上げるような嗚咽をこらえてい た。あわてて通り過ぎ、うつむいて体のふるえを抑え、落ち着くのを待った。それからまたアメリカンセンターの前に戻り、遺影の前で手を合わせ、近くの路上 に横たわっている物乞いに数ルピー渡した。


 朝六時に起きる。六時半に宿を出る。七時にマザーハウスへ行き朝食をとる。それから仲良くなった友人とボランティアをする場所へ行く。午前中は身寄りの ない老人の施設プレムダンへ行き、午後はカーリーガート、通称“死を待つ人の家”へ行く。

 友人に誘われてマザーテレサの施設でボランティアをすることにしたのだった。友人は楽しいと勧めるし、別れの悲しさを紛らわすにはいいかもしれないと 思ったのだ。

 施設へ行き、洗濯をして、掃除をし、おじいちゃんのマッサージをする。食事の時間になれば食事を出す。自分で食べられない人には手伝う。後片付けをして 終わりとなる。プレムダンでもカーリーガートでもだいたい同じだった。

 施設にいる老人たちは、以前は道端で物乞いをしていたか、極度に貧しい境遇で働きづめに働いてきた人たちなのだろう。マッサージをしていると、ある老人 などは本当にすばらしい、ほれぼれするような足をしていた。細く締まり、まったく無駄がない足だった。足の裏は靴底のように厚くなっていて、画鋲を踏んづ けても痛くもかゆくもないのだろうなと思えるほどだった。またある老人はひじとひざの皮が異常に厚くなっていた。四つんばいで路上で物乞いを何十年とした のかもしれない。マッサージをしながら、苦労したんだろうなと思っていた。

 施設でボランティアをしている人たちと話すのもまた楽しかった。僕のようにその気はさらさらなかったのにやりはじめている人もいるし、毎年時間を作って 来ている人もいた。世界中から、様々な背景を持ってボランティアに来ていた。


 ある日のこと。ボランティアが終わり、いつものように施設の二階のテラスでチャイを飲みながら、施設の前の街角のごった返す人たちを見ていた。韓国人の 友人とドイツ人のおじさんと三人で、言葉少なに人々が行き来する様を見ていた。

 路上にはホームレスの家族が何組も生活していた。僕たちの真下で、自動車の陰に全員で丸くなり話している家族がいた。子供が三人いる家族だった。母は赤 ちゃんを抱きあやしていた。小学生ぐらいの兄と妹もちょこんと座って家族五人で丸くなっていた。

 「ドイツだったら、こういうとき横一列でテレビを見ているだろうな」とドイツ人のおじさんが言った。
 「日本だったら、それぞれの部屋でテレビを見ているかもしれない」と僕は言った。
 ホームレスの家族はにこにこと丸くなり話していた。どうしてこんなに大変そうな生活をしているのに、あんなにすてきな笑顔ができるのだろうと思ってい た。


 カルカッタでの日々を楽しみながら、僕は一つの決断を下さないといけなかった。大学をどうするか、ということだ。
 出発してから三年が経過しようとしていた。当初は二年間休学する予定だったのだが、スイスで半年延長し、イスタンブールでさらにもう半年延長していた。 しかし、まだ日本に辿り着いていなかった。

 旅は、絶対に中途で辞めるわけにはいかない。休学期間が過ぎたから旅を終えるなどということは無理だ。だから、さらに半年休学を延長しなければならな い。しかし、あと半年で本当に旅は終わるのだろうか。終わらなかったら、さらにもう半年延長するのだろうか。そうやって際限
なく延長を繰り返すつもりなのか?

 もし旅か大学かという二者択一だったら、僕は躊躇なく旅を選んでいた。しかし、僕には休学というもう一つの選択があった。それは休学費用を親に頼り、帰 国したときの身分を保証されるという都合のいい選択だった。そしてそのことに旅の間中ずっと後ろめたいものを感じていた。休学では旅にならないという想い がくすぶり続けていた。

 あと半年の延長で旅が終わると確信できるのなら、休学を延長する。そうでないのなら退学する。さんざん考えた末に、そこまでは思い決められた。そして、 カルカッタにいる間に結論を出そうと思っていた。なんだか、日本は近づけば近づくほど遠ざかっていく気がしていた。
 ともかく、旅の終わりを腹から納得しないうちは旅を終わらせることなどできない、ということだけは確かだった。

 両親に宛てて大学について考えていることを書き、メールで送った。
 父からの返信に驚いた。父もまた三十年前のカルカッタで、僕と同じような岐路に立っていたというのだ。大学を休学してヨーロッパを旅し、それからアジア を横断し、カルカッタまで辿り着いたときに大学に復学するか悩み、そして戻ることを決めたのだという。カルカッタから日本へ飛び、二年間の旅を終えたと書 いてあった。

 「カルカッタは不思議な街です。我が息子も同じ所で、同じように自分を見つめている、自分の能力と意欲とを測りかねている、と考えると人生の不思議な巡 り合わせと思えてきます。ここは自分の力で乗り越えてください、いや乗り越えることが出来るでしょう。父より」

 三十年前の街並を想像しながらカルカッタの町を歩いた。目の前で手を差し出している路上生活者を見ると、本当に些細なことを決めかねていると思えたが、 たとえそうであっても問題が消えたりはしなかった。

 僕は、マザーハウスでのボランティアを続けつつ、あらゆる人と話していた。たたみかけるように、一日中時間がある限り話していた。出会いの連鎖は途切れ ることなく、急速に成長していった。苦手だと思う人とも努めて話していた。話してみたら不思議と苦手だとは思わなくなっていた。僕は心の鎧をすっかり脱 ぎ、話すことに夢中になっていた。出会いの連鎖が作る流れに身を任せていた。そしてこの流れは僕をどこへ連れていくのだろうかと思っていた。

 それはほんとうにすばらしい日々だった。いままでの日々が開花しようとしていた。あらゆることが次への伏線になり、示唆になり、きっかけになっていると 感じられた。そして僕は、正しい場所で、正しい時間に、正しいことをしていると思っていた。正しい流れの真っ只中にいると思っていた。どこへ向かうにせ よ、これからどうなるにせよ、この流れの真っ只中を、このまま怖れることなく行けばいい。そんな確信があった。
 それは、かつて経験したことのないほどの強い追い風だった。出会いの連鎖が追い風になり、そして、気がついたら一人の女性に出会っていた。


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