18

肉を食うということ


目の前で羊が殺されてゆく。
一人の男が頭を押さえ、もう一人が手足を押さえ、地面へ横に倒して動けなくする。そして三人目の男が蛮刀でさっと首を切る。切り落とすのではなく、前半分、喉のところだけ切る。
その瞬間、羊は狂ったように暴れる。脚が地面を蹴り、砂ぼこりが立つ。しかしそれも数秒で、だんだん手足が動かなくなり、数分後には時折ピクっとかすかに痙攣するだけになり、いつしかそれも絶える。首からドロッとした深い赤色の血が流れ出している。それがちょうど首の下に浅く掘られた穴にたまり、あふれ出ている。真昼の強い陽射しの下、深く赤い血が光を反射している。その光景が目に焼きつく。

マリ共和国にドゴンの村はある。マリは中心がくびれた形をした国で、そのくびれたところの西側に数十キロに渡る断崖がある。バンディアガラ大断崖という。そのバンディアガラの地に、ドゴン族は崖にひばりつくように数十キロごとに村を作り暮らしている。現代の波に洗われながらも、独自の神話世界を保ち、伝承し、その中に生きている。僕はガイドを雇い4日間ドゴンの村々を巡り歩いた。

三日目だった。
朝、ある村を出て次の村へ行く途中、ちょっとした広場になっている所でガイドが立ち止まり、今日、ここでマーケットがあると言った。近くに村もなく、まったく人気のない場所だったが、確かに広場の一角は木の枝とわらで作られた日よけがいくつか並んでいて、マーケットの場所らしい。始まるのを待ってみることにした。

朝九時から正午までは誰一人としていなかった。僕もガイドも木陰で寝ていた。それから、どこからともなく一人、また一人と人が集まってきた。頭の上にかごをのせた女達が集まって来た。ロバに荷車を牽かせ、男達が集まって来た。羊も引きずられるように何匹も連れて来られた。そうして、広場に徐々に人が集まりだしたころ、はじめの一匹の羊の喉元が掻っ切られた。

首を切られ、動かなくなった羊は、木の枝に吊るされる。まず、首のあたりから下へ、男は器用に皮を剥いでゆく。まるで服でも脱がせるかのように。それから腹を裂く。内臓を一つ一つ取り出す。肉を部分部分に解体する。男は淡々と作業を進める。羊は痩せ細ってゆき、最後には頭だけになる。その頭が取り外され、次の羊が架けられる。羊の目は開いている。

僕はその一部始終をずっと見ていた。見なくてはいけないと思っていた。生々しく、気味悪いものだった。
これが肉だったのか、と驚いた。知っているはずなのに、これが肉だったのかと驚愕ですらあった。
次々に羊が連れて来られ、喉元を切られ、暴れ、やがて絶命し、木の枝に吊るされ、解体されてゆく。今、命であったものが、次の瞬間、肉になっていた。それが、眼前に生々しく展開されている。何体もの羊が枝からぶら下がって揺れている光景。その下で他の羊が首から多量の血を流し、しかしまだ死にきれずに時折体をふるわせている光景。その横で別の羊が今まさに喉元が切られ、砂ぼこりが立ち、流れ出す血とともに、息が喉から外へ漏れてゆくその音とその光景。それらをつぶさに見ながら、つくづく、知らなかった、と痛感させられた。僕が毎日のように食べている肉がもとは生き物だったのだと、今、初めて、光景として、知った。

肉は、命だった。そして肉を食べることは、命を食べることだった。

一匹の羊が解体場所の真横で木につながれていた。僕は近づいて行って、目を覗き込んだ。この羊は何を感じているのだろう。僕は基本的には動物はそんなに感情というものを持たないものだと思っていた。しかし、この羊は明らかにおびえていた。目がよどみ、焦点が定まっていない。あるいは、それは主観的に見たから、そう見えるだけかもしれない。本当は羊は草を食べることしか頭にない動物なのかもしれない。感情などかけらもないのかもしれない。僕はふと物事に対して主観に走っている可能性を考え、そうも思った。しかし、どうやらそうではなさそうだった。そうでなければ、羊が次ぎに取った行動の説明がつかなくなる。 男がこの羊の番が来たので連れて行こうと近づいて来た時だった。なんと羊が男に頭突きをしたのだ。まさに決死の発狂とでも言いたいような反抗だった。男は蛮刀で殴りつけ、なおも逃げようと抵抗する羊を無理やり解体場所へ運んで行った。
僕は驚いてしまった。草食動物が、それも家畜が、人に襲い掛かるものなのか?
まぎれもなく羊は死の恐怖に怯え、人に襲いかかったのだ。僕はそう確信せずにはいられなかった。

解体場所のすぐ横でいつの間にか盛大に肉が焼かれていた。今、殺し、解体したばかりの肉がジュージューと油をしたたらせ、うまそうに焼きあがっている。
うまそうに?
肉を見て、うまそうだ、と感じる自分がいた。
たった今、死の恐怖に発狂し、男に襲いかかった羊を見て逃げろ!綱を引きちぎって逃げろ!と思わず心の中で叫んでいたにもかかわらず、だ。
目を移すと先ほどの羊が首根っこをぱっくりと開けて、横たわっていた。赤々とした血が流れ出していた。時折、まだ動く。

肉は、命だった。
そして肉を食べることは、命を食べることだった。
肉は、うまそうに感じられた。
はばかりながらも、まぎれもなく、うまそうだった。

日本にいたときはひとりも出会わなかったが、旅に出てからは、けっこう多くのベジタリアンに会ってきた。僕は今まで、そんな彼彼女達を理解できないでいた。甘すぎる憐れみ、先進国の人間のみが抱く、ある種の贅沢、そう思っているふしさえあった。しかし、この光景をまのあたりにして、そのように切り捨てることはできないと思った。

ジンバブエのハラレで出会ったニコちゃんの事が思い出された。
僕達は毎日他の日本人旅行者と一緒に親子丼やカツカレーなどを作って楽しく夕食をとっていたのだが、彼女は決して加わらなかった。どうしてか不思議に思っていたが、誰かが、彼女は体質的に肉を消化できない体だからと教えてくれて、かわいそうだなと納得した。しかし後日、彼女と話している時に本当のことを教えてくれた。彼女はベジタリアンだったのだ。

「小学校に入って、初めての理科の授業だったの」と彼女は話してくれた。
「その授業は、動物の正しい抱き方という授業だったの。先生がこんなことを言ったわ。うさぎを抱くときは耳を持ってはいけません。あなたの耳をひっぱられたら痛いですよね。だから両手でしっかり抱きましょう。猫を抱くときは首の後ろをつかんではいけません。あなたの首の後ろをつかまれて持ち上げられたら痛いですよね。だから両手でしっかり抱きましょう、って。私、それを聞いてすごくおかしいと思ったわ。だから授業が終わってから先生のところへ行って質問したの。先生、どうしてそうやって動物をやさしく抱くのに、お肉を食べるんですかって。そうしたらね、先生が私のことすごく怒ったの。よく分からなかったけど、すごく怒るのよ。だから私ますますおかしいと思って、それからだったわ、だんだんお肉を食べないようになったのは。もちろん、小学生の頃は親に無理矢理食べさせられたりはしたけど。」
そのとき僕はその話を聞いて、ニコちゃんはなんて早熟なんだろうと思ったが、肉を食べないという思想そのものについては特に何も感じなかった。

ある若いオランダ人のカップルもベジタリアンだった。僕は理由を聞いてみた。宗教的な何かなのか、それとも何か別の理由があるのか、と。
彼は宗教とは関係がないと言ってからこういった。
「僕は牛を殺すことができない。だから、牛肉を食べない。豚を殺すこともできない。だから豚肉も食べない。鳥も同じだよ。」
僕はそれを聞いて、どうしてそんな風に堅く考えるのだろう、と思った。そのときは僕の心をただ通過していっただけの彼らの言葉が、羊が肉になる光景を目のあたりにして、ある質量を伴ったものとして思い出された。きっとベジタリアンは肉を見て、僕達が見ない何かを想像してしまう人達なんだ。

俺に羊が殺せるだろうか。
旨そうに焼けている肉を見ながら、そう考えている自分がいた。
地面に頭と脚を押さえつけられ、さし出された喉元へさっとナイフを入れることができるだろうか。
そう自分に問うてみた。
出来るはずだ。
そう思いたかった。命が肉に変わりそれが焼けているのを見て、それでも、旨そうだ、と感じたのだ。それが生理的嫌悪より勝ったのだ。殺せないはずはない。

ガイドが焼けている肉を一切れ買った。今晩はこれを食べようと言った。
市場はいつしか人であふれかえっていた。子どもが走り回っている。原色の服をまとった女が片手に赤ちゃんを抱き、おっぱいをあげながら野菜の値段の交渉をしている。老人が大きなひょうたんに入れた地酒を売っている。ロバが干草を食べている。
午前中は誰一人いなかった広場が、日が傾きだした頃沸き立っていた。
僕はガイドと共に次の村へ移動した。夕食に羊肉入りのスパゲッティーを食べた。旨かった。過程を目撃してもなお、旨かった。殺せるはずだとまた思った。自分が旨いと思って食べているのだ。その肉を差し出してくれる動物を自分の手で殺せるはずだ。そう思った。

スーパーマーケットで売られているパックされた肉も、サラミもソーセージもフライドチキンも、命だった。それを目撃した。隠されてきた過程を見ることができた。そして、それでもなお、肉を旨いと思う自分を知った。
だから、殺してみたい、と思った。
ナイフを持ったら、僕はひるむだろうか。死の恐怖におびえた動物の前で、殺せない、と逃げるだろうか。いや、きっと…。

知っていることと、見ることは別だ。
そして見ることと行うことも別だ。
恐れながらも、機会があれば、きっと、と思った。
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